早川殿は北条氏康の娘で今川氏真の正室。
駿河・相模・甲斐の三国同盟(善徳寺の会盟 天文二十三年 ―1554)の流れで小田原から駿河に嫁入りしました。
もともと今川家と北条家は縁戚関係同士、氏真の父親の義元が甲斐、武田と同盟関係に動いたために北条氏康が駿河に侵攻し、関係が悪化していました。
これは富士川以東の領地争奪戦であったため「河東の乱」と呼ばれています。
晴れて三国の同盟を完結に至らしむため、遠縁同士の二人は天文二十三年、他の2パターンの婚姻の締めに駿河での新生活となりました。
そこに桶狭間の件―甲斐での「義信事件」の発生―信玄と家康の駿遠分割話―武田の駿河侵攻が起こって三国同盟の崩壊と繋がったわけで、駿河の館から早川殿は「輿にも載らず」=取るものも取らず、氏真らとともに大慌てで掛川城まで落ちています。
当時、姫様が自分の足で遠距離を移動することは前代未聞の大事件であったことが判ります。
家康の掛川城包囲網により止む無く開城した氏真一行は戸倉城経由で小田原の早川殿の父、北条氏康の元に庇護を求めました。
今風で言えば、「自分の家が倒れて、カミさんの実家に逃げ込む」という図ですね。ところがそこでの駿河奪回の夢は簡単に打ち消されてしまいます。
氏康が没して、家督を継いだ氏政の路線は相模-甲斐同盟の復活でした。
どうにもならなくなったことを知った氏真夫婦は小田原を逐電するもののあてもなく、何故か掛川で命を救ってくれた家康のいる浜松を海路目指したといいます。駿河は武田方が跋扈していましたから仕方ないところ。
そちら浜松で家康の庇護を受けつつ、戦国大名復活の夢は次第に消えて行ったのでは無いでしょうか。
小田原を離れる事に率先して動いたのは早川殿といいますが、この流浪は正解だったかも知れません。
もし、そのまま小田原に籠ることになっていたら、二人の命運はさらに悲惨な事になっていたかも知れません。
もっとも命を永らえるのみに心を費やし、家を潰したという点では「晴れがましい武将」とは言えなかったかも知れません。
しかし私はとことん命を拾って逃げ延びるという氏真の生き方が人間味があってより親近感がありますね。
家康の「名家好き」、今川家はそれなりに引き立てられて、大名としてではなく高家旗本として残りました。
同盟時の他の婚姻を記せば今川義元の娘の嶺松院が武田信玄の子武田義信へ、武田信玄の娘の黄梅院が北条氏康の子北条氏政へと三家三すくみの婚姻関係でした。
その3組の中で離縁とならずずっと連れ添った夫婦が氏真と早川殿でした。
画像は旧早川橋付近からの図(場所はここ)。
この「早川」という地に屋敷があったから「早川殿」と呼ばれたというのが通説。
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