近江高島の乙女ケ池は琵琶湖北西岸の城、大溝城の内湖で自然の堀跡です。
織田信長が自らの壮大な城、安土城を築城着手した頃、その対岸の守りとして明智光秀の坂本城とさらに北方の高島の地に信長の甥の織田(津田)信澄に築城させたのが大溝城です。
織田(津田)信澄の父は尾張末森城主織田信勝(信行)で信長の弟ですね。
この城は坂本城と同様、明智光秀の設計でやはり東岸にあたる長浜城と同じく琵琶湖の水利による経済発展と水を巧みに引き込んで堀とする要害化を期待した城です。
城主織田信澄は明智光秀つながりで彼の娘を妻としてもらったことが運の尽きだったのか、はたまた父信勝が謀反の疑いで清州城で信長に謀殺されているという経緯から「遺恨は当然」と思われたのか、本能寺の変のどさくさの中「謀反人」と決め付けられ殺されています。
信長の後継者争いで先手を打たれたことも考えられます。
ちなみに彼の父の織田信勝はその父織田信秀の葬儀の際、「礼儀正しいしっかりした息子」の方で有名。
「無礼で大うつけ」の信長に対して周囲からは「こっちを跡目にしてもいいくらい」と好評価の人です。
その子の信澄ですからその知勇と力量は彼も引き継いでいて、あの時父親と一緒に殺してしまおうとも考えた信長が以降引き立てて琵琶湖対岸の要衝を与えたというほどです。
特にあの時代は「律義で真面目で頭がイイ」人が必ずしも出世して家の安泰に繋がるとは限らないということでしょう。
そののち大溝城には織田信澄を打ち取った丹羽長秀等入れ替わり入城していますが、この城が大河ドラマあたりで出てくるのは浅井三姉妹の「初」が京極高次の正室としてこの城で新婚生活を送ったということくらいでしょう。
「水城」でしたので平坦地で開発が進み、高島総合病院という大きな建物が城の縄張りを侵食しているようです。
遺構はちょっとした石垣のみが残ります。アップダウンもなく「駅前城めぐり」の気軽さですね。
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