小田原城総構、「西方の台地上(小峯に至る八幡山―昨日)」には、秀吉の小田原攻めを想定する以前の三の丸外郭の空堀と土塁があります。
400年以上も経過しているにもかかわらず「痕跡」では無くそのものズバリを目にすることができます。
今は「毒榎平」という名前で通っているようですが、私の幼稚園の頃は「森林公園」とか「慰霊塔」と言って日帰りの遠足の地でした。まさに頻繁に行ったものです。
春になれば桜が咲き、夏は昆虫採集。小田原市街西部の人たちにとって子供たちを連れてのボール遊びや散策にも欠く事のできない地です(場所はこちら)。
城としてはコンパクト、当地の諏訪原城あたりの堀から比べれば、経年による土砂堆積によって「深い」というイメージはそうありませんが(いや深い・・・) 、最近では箱根の山中城と同様に堀には畝の刻まれた痕も確認できたそう。
小田原市は小田原城という観光資源があって、どうしても天守閣周辺に力を入れがちになりますが、その畝堀の確認ができたのですから、発掘調査後のその堀の復元と整備に着手いただきたいものです。いずれ三島市の施策整備、山中城畝堀が復元されたように、鬱蒼とした雑草と木々を伐採してせめて「管理」をしていただきたい。
画像は最近の撮影のものではありませんが、慰霊塔のスグ背後にある空堀と土塁。
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