「成瀬暁心翁之碑」 日坂 法讃寺 

本年4月より日坂法讃寺さんが岡崎教区三十一組の組長さんになることはお伝えの通り。これより3年間、日坂へ通うことが多くなるかと思います(場所はここ)。

日坂という地については川坂屋はじめ近隣の小夜中山・各々夜泣き石・事任神社そして粟ケ岳などなど、ブログにて記しています。

 

法讃寺は日坂成瀬家の菩提寺です。

成瀬家の墓地は本堂正面に鎮座し、第九代犬山城主の記したといわれる篆書(てんしょ)による表題の石標が建っています。

日坂で生まれた書道家として名を成した成瀬大域が明治三十年に記したものです。

この石碑には当山大澤寺の名が出てきます。大澤寺の流れで菊川平尾に建てた西林寺の名も。

西林寺は大澤寺の開祖今井権七の長子で二代目の西念が建立した寺です。

成瀬藤蔵正義の末の子(伝四男)を婿入り(三代目)させることとなり、西念は大澤寺が相良大沢に至る前、元の本樂寺(第一次高天神城の戦いで焼失)に向かうことになりました。しかし既に他者が家等を建てていたため別地を求めて寺を建て寺号を「西林寺」としました(位置関係)。

本樂寺から見てまさに「西の林」の地だったのでしょう。 

 

ということで法讃寺にはご縁のある寺として度々足を運んでいますが、こちらにその碑文を写しましたので記させていただきます。

記述の中身は時代が前後したり、明らかに間違った記述もありますが、当山大澤寺のルーツが記されている貴重な資料です。

特に、犬山成瀬家が三方ケ原で戦死した藤蔵正義の長男(弟ではなく)と記していることは面白いところで、私もその説の方が当時の家督相続の慣例に合っていると思っています。

 

平がな無しの漢字ばかりですが、大筋の感じだけでもつかめるかと思います。ただし「面倒くさい」あるいは最初から「読む気にもなれない」という方のために浜松の林信志氏による訳文を添付して左側ナビゲーションに並べました。

 

正四位勲四等子爵成瀬正肥篆額

成瀬氏之先出自尾張国犬山人藤蔵正義君君事東照公三方原之役我軍大敗績君感激奮戦敵莫不被靡君知君之遠去謂衆曰今日我事終衝圍而戦歿君配某剃髪改名妙意有孤兩男相携ト居於遠江国城東群西方邨稱下澤田而奠柩且決意創立平尾邨西林寺隠遯於此祈君冥福天正年間罹兵燹因移相良近郊須須木邨稱大澤之小庵而後又建立一宇於榛原郡相良新街又移居焉即今之大澤寺也萬治三年正月廿九日享年百六歳病逝矣先是東照公召其長子以為嗣是謂犬山家之祖成瀬隼人正正成君次子藤蔵正義君辭召農耕自給即為西方邨成瀬家祖為人至孝紹母志信佛尤深逢人語考妣遺事潜然久之云延寶元年七月廿五日病逝諡曰昌巌道玖居士長子宮内衛門君有故分家産別宅於日阪古宮町後六代而至先孝半五郎孝甞謂祖先塋舊在同邨田間中建築之小宮納祀其位牌與系譜故安永年間前代某出弔犬山家墳塋時携系譜供之城主一覧以其統判然拝領大小刀槍上下服等而帰焉斯以後間有城主参勤於江都乃途送迎于大井川贈於菊川鍛冶之矢鏃之事而孝之父忠兵衛深信佛突然出家巡拝高祖親鸞上人舊跡遂不帰母亦去徃御前崎郷里轉而歿東京云盛衰如夢是以先業邨衰家殆中絶祖傳什物皆散佚唯遺係備前長舩清光作大小一對而巳大有故譲本町別家失諸火災小則孝所所蔵今實在温手孝幼而孤故寄姻威金谷黒田氏又為川崎笠原氏所養難耐去終勤仕掛川祖父江氏艱苦具嘗温憶此今猶涙難禁焉及長一日慨然大息曰時窮親戚亦疎待我家門閥之後雖零落以至今猶不可再興乎此年廿四五奮然辭祖父江氏独立創薬業巳得娶本町久兵衛君長女千代子協力勤勞終回復先業實可謂吾中興之祖雖然繼絶之業亦同戦後之経営不容易晩漸得安焉明治十三年夏五月佐夜中山開新道静岡県令大迫君將選県下雙壽以使為先導時考年八十一妣七十五當其選得並車先導之光栄考恒信佛傍楽俳句號暁心時有句曰 餅滿吉也登喜茂和歌葉迺美地比良幾 呈大迫君君返歌曰 毛呂登茂仁八十歳古江亭高砂乃松登東茂尓母千代遠遍努辨之 明治十六年十二月十八日午前三時老病如眠稱名之

聲微而逝享年八十四妣先逝同七十八有三男長温嗣家次善十郎出嗣金谷松浦氏季辰平有故替為嗣温出嗣本町正右衛門之後此家歴代以善書稱於郷黨温繼其箕裘固非偶然也温既使長男宗兵嗣遊東京扣諸名家門終遊安井息軒翁門而下帷根岸邨以書法教子弟曽拝職宮内省御用掛奉

勅臨義之聖教序上之稱旨賜古硯係於楠中將手澤者實吾家萬代之宝也余毎感此幸榮無不懐起祖先餘光與考之恩恵茲議善十郎辰平兩弟序祖先之系譜與考之勤功以勒之貞珉表三悟山先塋之側云

 

明治三十年歳次丁酉冬十二月

                     賜硯堂成瀬温雪涙誌并書

 

                      松浦善十郎

                      成瀬辰平   建 之

 

                              井龜泉 鐫