天正十年六月、本能寺での信長憤死の報を聞いた秀吉に官兵衛がつぶやいたといわれるのが上記の言葉。
「ごしゅうしょう もっともしごく ひっきょう きこう てんかのけんぺい とりたまふべき」。
おそらくこの言葉があのタイミングで発せられ、それを受けて即行動が起こされたことによって所謂「歴史」というものが大きく変わったと言われている「Key」となった言葉でしょう。
それ以降、大きく「動」いた彼は、面白いようにその通り天下を自分のものに引き寄せていきました。
動いた人は秀吉、言葉を発した人が官兵衛でした。
官兵衛が秀吉のNo.2として評価されたのは、まさにそのKeyとなった「そそのかし」の文言の的確さです。
主人の非業の死に接して悶絶するわが主の体を目前に放った言葉は歴史を変えてしまったといっても過言では無いでしょう。
最初の言葉「御愁傷尤至極」、「今般の悲報を耳にしてまったくもってご愁傷のことではございますが」を見て
まるで葬儀式の弔辞の様にも感じます。
悲しみはあるでしょうが、「あなた様のやるべきことはコレ」とご遺族(ここでは血縁を無視した「相続者」)の歩むべき道を示しているようでもあります。
「畢竟」(ひっきょう)とはご門徒の皆様でしたら「正信偈」拝読のあとの御和讃(浄土和讃)、「弥陀成仏~」の五句目四の「畢竟依を帰命せよ」(ひっきょうえをきみょうせよ)とお馴染みの言葉です。
ちなみに経典の意味は
「つまるところ究極の、依るべきもの―阿弥陀如来―に帰命(おまかせ)して進もう」です。
そういう意味(つまるところ今やるべきことは・・)から信長の葬儀式の施主、主催者として誰が名乗りを挙げるかが一大目標となったわけですね。
そしてこの言葉たちの中で一番の重きを為すKeyの中のKeyとなる言葉が有名な「天下の権柄」となります。
「政治上の実権、他を支配する権力のこと」を言いますが、「あなたが天下を取りなさい」ということですね。
その言葉に「ハッと気づいた」のか秀吉のそれからの動きが天下を仰天させた「中国大返し」でした。
まぁ一番驚いたのは秀吉本人だったでしょう。デキすぎでした。
信長横死情報を撤収時まで完全に封鎖し水攻め包囲中の毛利方備中高松城城主清水宗治を舟中にて自害する姿を見届けてから一斉に動くという図々しいほどの憎たらしさをも見せつけ、天王山の戦いとも云われる山﨑の合戦(6/13)へ進んでいったというものです。
本能寺が6/2ですからまさに「天下の事」が数日でコロコロと動き回った時でした。
あまりにも秀吉がテキパキとうまい具合に動いていますので後世、「本能寺の秀吉黒幕説」が出てきた由縁でもあります。
秀吉がしゃかりきになって光秀の元に駆けようと算段している最中、当の光秀は京都の朝廷・公家工作に時間を費やしていたといいます。
この秀吉の「瞬間移動」は光秀にとっても「まさかの坂」だったはずです。
画像は水攻めの高松城外に漕ぎ出した清水宗治の図(Wikより)と近江坂本西教寺の石碑に刻まれた明智光秀辞世。
後世の創作であること、かなり怪しいところではありますが。
「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
私の生まれた小田原にも多少の縁がある吉川英治の解釈によれば、
「たとえ信長を討つとも、順逆を問われるいわれはない。
彼も我もひとしき武門。武門の上に仰ぎかしこむはただ一方のほかあろうや。
その大道が我が心源にあること。知るものはやがて知ろう。
とはいえ五十五年の夢、醒むれば我も世俗の毀誉褒貶に洩れるものではなかった。
しかしその毀誉褒貶をなす者もまた一元に帰せざるを得まい。」
※毀誉褒貶(きよほうへん)~褒めたりけなしたり
ちなみに西教寺の表札には
「大意は、修行の道には順縁と逆縁の二つがある。しかしこれは二つに非ず、実は一つの門である。即ち、順境も逆境も実は一つで、窮極のところ、人間の心の源に達する大道である。而してわが五十五年の人生の夢も醒めてみれば、全て一元に帰するものだ。という意に解せられ、光秀公の深い教養と人生哲学を表しています。」とありました。
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