それにしても酷い土砂降り。薄暗い本堂で耳に入る、地を叩き付けるような雨音はクロサワの羅生門の出だしのシーンを彷彿とさせます。
こういう日はどこにも出ないのが一番なのですが「どうしても」しなくてはならないことはありますので、外出は仕方なく。
帰り際バイパスの水溜りにハンドルを取られて「すわっ!」というシーンがありました。
昔はそんな油断は無かったのですが・・・
さて、NHK大河の官兵衛の放映もあってか、まぁそれより以前から「No.2」ブームも並行して盛り上がっています。
他局ですが「THE ナンバー2」なる歴史上の人物をとりあげて主君(ボス)の出世に一役買った人物をピックアップした番組もありました。
会社経営や組織を牽引する指導者にはその補佐役の存在が非常に重要であるということを歴史に聞くことは常道ですね。
そういうことから秀吉の天下統一という成功譚に「欠くことは出来なかった人」として黒田官兵衛がクローズアップされて「No.2こそ彼である」というのが今回の大河の趣旨なのでしょう。
しかし、本当の意味で秀吉の生涯に「欠くことのできない一人」を挙げるとしたらそれは両兵衛(黒田官兵衛と竹中半兵衛)、ましてや小六(蜂須賀正勝)や将右衛門(前野長康)などでは無く、秀吉の数少ない血縁者の中で一番縁の深い、弟の小一郎(秀長)以外考えられないところです。
彼(後世、大和大納言)の姓は木下→羽柴→豊臣の変遷ですので兄の秀吉と同じですね。
「秀次事件」の秀次と混同しそうな名で「秀長」自体、元の名のりは「長秀」ですのでますますややこしくなりますが、「長」も「秀」もそれぞれ信長と秀吉の偏諱であると考えるのが普通の取り方、そして最初は信長様の方を上に持ってくるのは当然のことでした。
後に秀吉が天下統一して上下反転させたと考えれば覚えやすいところです。
たまたま、秀長は地味な役回りで余り表にしゃしゃり出ることをせず、裏方に徹して兄秀吉を引き立て、従順なれど的確な方向を導いて補佐、そして何より周囲から絶大の信望を得ていたといいます。
ましてや他者との決定的な違いは、面と向かって秀吉に非を指摘できる血縁者という立場だったことです。
太宰治が死する直前に記した「ココまで書くかの憎まれ口」の如くの批評書「如是我聞」(にょぜがもん)に「家庭のエゴイズム」=「妻子が可愛いだけじゃねえか」の一節がありますが、官兵衛(黒田孝高)には自分を完璧に殺して主従するほどの境地にはなり得なかったのではないでしょうか・・・彼には愛すべき妻子がいましたしね。
太宰はそういう「家庭的」環境に押された者の「限界」を皮肉っています。
そういう意味からして「真のNo.2は秀長」と言いたいのです。
これは何もここで熱く語らなくても、そこのところは常識的視点であることは間違いないところです。
天正十九年(1591)豊臣秀長が100万石の城、大和郡山で病没した辺りをピークに秀吉の坂を転げ落ちる如くの「暴走」が始まっています。まるでブレーキの壊れた車の様に。
本物のNo.2が不在になったからこそ秀吉が自ら瓦解する姿を傍観するのみとなり、その流れを止められなくなったのでしょう。官兵衛ではその役に力不足であったことは違いないところです。
彼の「天下」をも取りたいといった風も感じますし・・・(これは主人秀吉が彼を「警戒」するエピソードの数々からもうかがい知れます)
ただし当初の秀吉筆の書状によれば官兵衛を、「秀長と同等である」との、例の「人たらし」たる表現をして称えています。
「其方のき(儀)ハ、我らおとゝ(弟)小一郎(秀長)とうせん(同然)に心やすく存候」
官兵衛への最高の賛辞として著名な一節でした。
大河ドラマに沿って官兵衛の絶大な評価は時流になる中、軍師として、例の三成が武蔵忍城で真似た備中高松城水攻めでの官兵衛の活躍について多少はあったとしても「言いだしっぺ」では無かったというのが小和田先生の推察。
前出の小六(蜂須賀正勝)や将右衛門(前野長康)等、根っから木曽川周辺の低地帯での水運に長けた者たちの発案であったことは十分推測に易いところがありますし、海賊と同様、陸戦オンリーで戦ってきた者が「水攻め」という地形の高低差や川の流れ等を勘案した高度な技術を一朝一夕に身につけて実践するなどということは、まず無理であるとのことでした。
さぁ、ドラマではどういう描かれ方をするでしょうか。楽しみです。
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