渡辺綱(わたなべのつな)系赤田氏の城  八町城

そっちの方面はからっきし疎いのですが、数年前の宝塚劇場の演目で「大江山花伝」というものがありました。

勿論このお話は劇画やら一般的に私たちが父親や祖父から子供時代に夜な夜な聞かされた元となる「怖い話」に色々な脚本がされた別物ですが、今の時代、子供たちに其の手のお伽噺風というか日本の歴史を物語する親は少なくなっているでしょうね。

 

 渡辺綱(わたなべのつな)は嵯峨源氏流で正式には源綱(みなもとのつな)。源頼光に仕え(頼光四天王)大江山の酒呑童子、一条戻橋の鬼退治等で剛勇振りを発揮して後世のその手の語り物の端となっています。

その渡辺綱の子孫が越後の赤田という地の地頭職として赴任して以来「赤田」を名のりとします。

その後に現在の近江湖東は犬上郡豊郷町に居を構えたといわれています。

 赤田家の居城「八町城」(場所はここ)は、平城の類で先日紹介しました菊川の黒田屋敷のような感じだと思います。

仕官先は佐々木→浅井氏配下となって対六角氏との前線として戦っています。一旦は浅井家滅亡と同時に離散状態に陥りますが、名家だけに秀吉に拾われています。

秀吉以後は関ヶ原で西軍についた事から歴史から姿を消しています。

 

 しかしこの地には赤田そのものの姓は無いそうですが、庶子傍系の子孫の血脈が続いているとのこと。

城址は現在の曹洞宗の常禅寺とお隣の白山神社、周辺民家だといいますが、周囲を歩いてみれば「土塁らしき」土盛りについては確認できました。

お寺の門前には歴とした城址を表す石柱が建っています。

 

こちらのお寺、境内墓域を散策させていただきましたが、不思議な事に真宗系の法名を記した墓碑が目立ちました。

近江は門徒が多いとは聞いていますが、他宗の墓地にまでその名残があるのには驚かされました。

昨日記しました四十八体石仏のある墓地もその手の墓碑銘が目立っていました。