奈良時代の歴史の中で、天皇家での勢力争いに「恵美押勝の乱」という事件がありました。「恵美」とは変わった名前でしたのでその名を教科書で見つけた時を鮮烈に覚えています。
「~の乱」と後世伝えられているということは勝者側から見た表現であることがわかります。ということで恵美押勝さんは「争いの敗者」ですね。
もともと「恵美押勝」の名のりは藤原姓、藤原仲麻呂のことです。本当にその名に当人が喜んで付けていたかどうかわかりません。後世改ざんの可能性もあるやもしれません。
私が「変な名前」と感じたのは「蝦夷 えみし」という当時代の差別的(であると解釈できる)言葉の発音に似ていたからです。
このドサクサの件、「続日本紀」に記されているそうです。
女帝孝謙天皇(聖武天皇と光明皇后の娘)は当所、藤原仲麻呂と「イイ仲」だったそうですが、病を機に、日本の「怪僧ラスプーチン」ともいわれるほどのちに政治統治を思いのままにしたといわれる道鏡に鞍替えしてしまいました。勿論、孝謙天皇というスポンサーによって頭角を現したものです。
一介の僧がトントン拍子に出世して行き、自らの立場が危うくなったことに焦った仲麻呂は、状況打破を画策して兵を挙げますが、事前に察知されて敗走。
764年(日本史受験必須 「南無死する押勝」と覚えます)に近江の高島郡のこの辺りで子どもたち一族30余名とともに斬殺されました。
さて、時は下って近江守護六角義賢(承禎 通称「佐々木六角」 こちらにも)が亡き母を思慕し、居城観音寺城から見て琵琶湖を隔てて西方浄土にあたるこの地に48体の阿弥陀仏を建立したのがこちらの石仏群です。
勿論この「48」という数字は阿弥陀仏の「弘誓」(ぐぜい~正信偈にも出てきます)、「四十八願」のことで、その誓願一つづつに石仏を拵えたものと思います。
当然の如く阿弥陀様のお顔はそれぞれが違って皆もろともに観音寺城のある東方を向いています。
それには六角義賢の六角家安泰の願いも含まれての石仏建立であったことが窺われますが、歴史は皮肉にも信長の蹂躙によってその意を叶わせることはありませんでした。
尚、石仏を数えても48体は無いではありませんか・・・。
33体です。
何故かはわかりませんが坂本の慈眼堂という寺に13体が安置され、残りの2体はどうやら盗難にあっている様。
墓石に異常な趣向を持つ石仏マニアがもしいたとして石仏を枕元に置いて「日夜愛でる」という姿も想像するに難くないのですが(ちなみに私はそこまで行っていません!)、いくら何でも罰当たりな事をするものです。
盗品ならば外には置けないでしょうし、かなりの大物。どうやって持ち出したのでしょう。
とにかく大きな阿弥陀さんがここまで揃う姿は圧巻で感動的です。
不思議なご縁で幸運なことでした。こちらを辿るに事前情報無しでしたから。
湖岸国道161号線の山側駐車帯に車を停めたところ看板に目が留まってフラッと散策、迷い込んでたまたま出会ったのですから。旅はこういう出会いがたまりません。
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