小田原城防備の要の城、西方からの箱根山越を守るためにある三島の山中城について何度か記しました。
私もあまりにも身近な場所にある古城の名は頭に焼き付いていますので、この名「山中山」を見て戸惑いながらも山中城では無くどこかの「山中山」という名の城なのかと思ってしまいました。
「城守」という言葉もよく考えればオカシイのですが「城主・守将」を混同して「まぁそれで良し」として受け流してしまいましたね。
上記の読み方はまったく×(ペケ)。正解は「やまなかやましろのかみ」、山中長俊を言います。
山城とは現京都木津川に国府のあった国名で「山代・山背→山城」と変遷したようです。
平安遷都の当時、桓武天皇が当地が天然の要害の如く河川山脈が帯び、恰も「城」の体であることから「城」という字を充ててここで初めて「城」を「じょう・き」に加えて「しろ」と読ませたといいます。
官位「山城守」は他にも多々名のりがありますが、有名どころでは斉藤道三・三好康長・松永久秀・直江兼続などがあります。「山城」は今で言えば「トウキョー」、名前だけのお飾りでしょうが、名誉ある位名です。
山中長俊は甲賀の山中村の国人支流庶子の系統で近江、六角義賢配下で信長と戦っています。六角氏敗走後の主人は信長→柴田勝家→丹羽長秀→堀秀政→秀吉で、秀吉の時に従五位下、山城守を名のります。関ヶ原では西軍に与したために改易されています。
近江坂本にある西教寺(場所はここ)の看板。
墓碑ははたして山中長俊のものであるかは疑わしいものがありますが、当家、山中家は元は「橘家」を出自とする様で「橘」や「橘内」を名のることもあったようです。その「橘」を唐突に強調するのはシブくて良かったのですが、その名「長俊」と記すものを「長後」としてしまいました。
元の神奈川県人としては小田急江ノ島線、藤沢の「長後?」をイメージしてしまいますが、これは看板屋さんの書き間違いとお寺さんの「放置」の業でしょうか。
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