強烈な台風8号が北上しようとしています。早い時期なのに・・・
台風で恐怖の思いを何度も体験している私にも一言。
気圧は低い方が勢力が強いのですが、今後北上してパワーが落ちるはずにもかかわらず今年は海水温が高いために尚も勢力が強まる可能性があるとのこと。
私の沖縄で経験した最大台風937ミリバール(今はヘクトパスカル)からするとそれよりも凄そうな数字が出そうです。
あの時は鉄筋の入った電信柱が折れ、係留していた船が道路に打ち上げられていました。背の高い車両は横転します。
推測コースから言って九州中北部要注意ですね。
沖縄人(うちなんちゅう)は対策について習熟して人的被害は比較的少ないのですが、内地の人は「まさかこっちには来ないだろう」という変な楽観があって被害が拡大する傾向にあると思います。ご注意くださいますよう。
そんな今頃の季節にはあまりピンと来ません。
厳冬期の寒くて体も冷え切ったそんな時、Hotなスープの一杯ほどうれしいものはありませんね。体も心もほっこり、まさに「ホットする」ひと時です。そんな話です。
きっとそのように寒い日の晩に温かいものの接待をうけ、固くなった身体に血が巡ってついつい饒舌にもなって標記のような歌が出たのでしょう。近江好き(木曽殿・・・)、そして滅した者に思いを馳せる芭蕉らしい歌です。
私もそのような「温かい」饗応、もてなしを受けるというシチュエーションがありますので、気分次第ではそんなお話をいつかはしてみたいと思っているところです。
しかしながらこの句を一瞬見ただけでは何の事だかサッパリわかりません。
「明智の妻」とは明智光秀の奥さんの妻木の煕子(ひろこ ただし不詳)。
「妻」は旧姓「妻木」の「妻」もあってその語を使用したのでしょう。もっと違う呼び名の選択肢はありますし。
その「妻」ですから細川忠興の室「珠・玉」(細川ガラシャ)の母親でもありますね。
夫の光秀も娘も儚い命を「ふっと」消して行った者たちでした。
芭蕉の句を詠んだシチュエーションとは、伊勢方面での旅先、経済的に困窮状態にあることが分かっているその者の家に泊まった時です。
「その妻、夫の心にひとしく、もの毎にまめやかに見え」たとあります。芭蕉は温かいおもてなしに感動したのですね。きっと芭蕉は突然の客だったことでしょう。
その妻の動き―心ばせを、貧乏にもかかわらず・・・
「日向守の妻、髪を切りて席をまうけられし心ばせ」と締めています。
「惟任日向守」は明智光秀のことです。
近江には「内助の功」といえばコレという山内一豊の妻の千代が馬を買う金10両を工面したという話がありますが、芭蕉好みの「内助の功」はこちらの方。
先にも記しましたが前者は嘘くさい話なのですが、こちらは十分にあり得る話で、内容としても好感が持てますしね。
光秀は京都の将軍家、公家階層ともチャンネルを持って、その理知的雰囲気を醸し出すような人でした。
義理堅くそして連歌会なども好んで出席していたことでしょう。
武人の嗜みでもあった連歌でしたが信長の歌系のイメージとしては、「人間五十年」くらいですから、そんなところでも性格もかなり異にしていたことがわかります。
本能寺直前にそんな連歌会があってホントにそれを歌ったの?と勘繰りたくなるような超意味深な歌
「時は今 雨が下しる さつきかな」
などあまりにも後世有名になりました。
ちなみに「時=土岐氏」で明智の源流、「雨=天」で下しるで「天下」・・・なのですがやはりどう考えても「後付」の様な気がします。
さて、そういった連歌会は持ち回りで行われたといいますが、これは当時でいう「パーティ」交流会の類。
幹事役が回ってきたらそれまで自分が皆さんにもてなされてきた分、自宅にその者達を客として招き、宴を催すことになっていたそうです。
おそらく、光秀はその時は禄を失って貧乏所帯に陥っていた頃だったでしょう。
仕えていた斉藤道三が息子の義龍に討たれてから流浪して再び仕官したのが朝倉家。時間的にはその辺りでの出来事だったのかも知れません。
要は貧乏で当時の明智家には宴を開くほどの余力が無かったという状況でしょう。
光秀はかなり落ち込んで想い病んだそうですね。それを見た妻は密かに女の命、「長髪」をおろして「供とし」その宴を無事開いたといいます。
今では旦那のプライドなど糞くらえ(ちょっと言い過ぎ)、「謝ってごめんなさいしちゃいなさい」と言われそうですが・・・ところで黒髪価値ですが、「パーティ」が開けるほどのおカネになったのでしょうか。そういわれていますが実感が・・・。
近江西教寺には光秀の墓の隣に「明智の妻」の墓が建っています。その近くには標記芭蕉の句碑が。
コメントをお書きください