画像は昨日記した相良愛鷹岩の図(2/19)。
天気が悪くて寒々しています。ブログが「重たい」のは「あんたのせいや」―画像アップしすぎ―と警告がありましたので今後さらに圧縮しつつ点数を少なくしていこうと心がけます。
さて、戦時中、父上の転勤でサイパン島に渡ったのちに帰国した姉弟のお話を聞く機会がありました。
「私たち家族はサイパンに居たことがある」という投げかけ、その「サイパン」という語彙に反応してしまうのはついサイパン、テニアンに能天気なリゾート気分で赴むいたことがあるが故のものなのですが、そのお話を聞いて酷く反省した次第です。
「海が嫌い・・・」の理由は戦時中、戦況悪化に伴って「婦女子のみ」日本に引き揚げることになった際の強烈な想い出からです。
引き揚船の出航の日、母親と3人の子供たちを桟橋に見送った父親とはそれが最期の別れだったということです。
戦争が終わってから父親はいくら待てども帰らず、結局は遺骨さえも戻らなかったそう。その後度々テレビ等で放映されてきた「バンザイクリフ」の悲惨な情景を見て父親もおそらく「海に沈んだ」と思ってきたそうです。
母親ときょうだいが本当の海の恐怖を味わったのはサイパンを出港してしばらくたったあとのこと。
名ばかりの護衛船に囲まれて航行する船団は簡単に米軍潜水艦に追尾されていたそうです。
船上では「その時」に備えて避難訓練等が行われていますが、まったくそれは何を心掛けても「運」次第。
「来なければしめたもの」と思っていれば、そんな願いは一瞬に吹き飛ばすが如く目前の輸送船が乗客退避の猶予もなく轟音とともに真っ二つに割れて轟沈。
「予想の通り」今度は自らが乗船する船に向かって魚雷が白い帯を引いているのが目視できたと。
船上は大騒ぎ「当たるな 逃げろ」の願いと回避行動も空しく船尾に命中。轟音とともに大きな水柱が上ったそうです。
強運だったのは船尾への被弾で、船が沈没するまでに余裕があったということ。
しかし助けに来た船は一回り小さな船で、乗り移ることに躊躇する幼き子供は大人たちに放り投げられたそうです。荷物を放り投げる様に船から船へ。
「私は海が嫌い」、重い言葉でしたが時間が経って「ようやく最近そういう感情は薄まってきた」とのことでした。
「バンザイクリフ」は「(天皇陛下)万歳して崖(クリフ)から飛び降りる」という意ですが、特にこちらサイパン島北部にある崖が有名(ウィキ)です。
米軍の投降説得に応じず、自ら崖から飛び降りるという「死」を選んだ人々がいらしたわけですが、これが世にいう「戦前戦中教育の恐ろしさ」の一端ですね。
「鬼畜米英」思想と山県有朋(旧長州藩士)の
「敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。
決して敵の生擒する所となる可からず。
寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、
日本男児の名誉を全うせよ。」
と言い出して有名なバカバカしい後の標語
「生きて虜囚の辱を受けず」を国家が流行らしました。
この標語を国民すべてになべて流布し、実践させるというのはあまりにも酷い教育、プロパガンダです。
おそらく中途半端な武士道精神から思いついた言葉だと思いますが、そのとき「死ぬ」のは政治家(戦争をやりたい人)だけでいいのです。
結果的にあれらの教育姿勢は多くの日本人を殺してしまいました。
あの悲劇を繰り返す事ほどの無能国家はありません。
「潔さ」とは人を(国民を)道ずれにしないこと、他者を傷つけないことです。人を傷つけず助け合っていく精神が必要です。
国家の利権(といっても時々の為政者の恣意的な)ばかりを追わず、個人(会社)主義に走らず、狭量な愛国心とやらもいらず、淡々とみんなが「人に優しい」といわれる人間になることを目標にできればこの国も屹度「いい国」になるでしょう。
ちなみにサイパンの隣のテニアンも私にとって「至上の楽園」というに相応しい場所ですが、米軍はここに増設した滑走路を足掛かりにB29を発し原爆を日本に投下したことはあまりにも有名です。私が「余生は南の島」と願う「楽園=浄土」は裏を返せば(時間を遡れば)「地獄」であったことを忘れてはならないですね。
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