関東管領上杉憲政の嫡子龍若丸が小田原の北条氏康の元に連れてこられて殺された件を記しましたが、上杉憲政の家臣敗死、離反が連なって命運尽きゆくさ中、長野業正(なりまさ)が上杉家への義理だったのでしょうか~実際の所は不明ですが~、居城の箕輪城に籠って、越後長尾家に旧主が逃れたあとも頑強に、武田信玄、北条氏康に徹底抗戦して、城を守りました。
その長野業正の没したあとはあっさりと箕輪城は武田家の手におち二転三転したあと北条氏康の四男の北条氏邦が北関東を制しました。
山中城宗閑寺さんの墓地にはこの箕輪城の城代としてあった多目(多米)長定の墓があります。
群馬高崎からはるばるこの城の守将として小田原に向かったということは十分に頷けます。
そもそも多目家は出自を伊勢宗瑞と同じ平氏を標榜し宗瑞以来の御由緒家(北条七家老)といいます。
北条家の窮地に最前線に立つ(死地に赴く)ことは十分に考えられることです。
彼の墓碑の隣には彼と同様の板状自然石を使用した墓碑が建てられています。いずれも北条方で山中城で討死した長谷川近秀、追沼氏雅両名です。おそらく後世になって建碑されたものでしょうが、どちらの碑文もハッキリ確認できてわかり易いものがありました。
多目(多米)長定の墓碑には「平」の字が光っています。
コメントをお書きください