秀吉の子飼い、一柳直末を討取った間宮康俊の隊が居た場所はなるほど、本丸から見て南西側、沼津より登攀してくる秀吉の大軍も崖に貼りつく攻め手の兵も一望に出来る最前線の出丸です。
この出丸は「岱崎(だいさき)出丸」といって本丸とは国道1号線を挟んだ逆側の先端にあります(昨日の画像でいえば⑰~⑳)。
秀吉軍の先鋒大将は秀次で、当然に近江八幡城時代の秀次付の家老職諸士を率いています。
対する間宮康俊の率いる守備側の人数は約100名と聞きます。
数万の部隊が一気に駆け上がるスペースはここにはありませんが、畝堀も障子堀等いくら工夫を凝らした防御態勢もまったく「多勢に無勢」で機能しなかったことでしょう。
あの芸術的構造物の遺構は現代の私たちにとっては美しく興味深いものがありますが、あの手の堀ではなく、高低差を生かしてもっと深めの箱堀あるいは垂直に近い崖を作ってさらに底部に落とし穴等の細工を作りたかったですね。
要は勢力差もありましたがそれに加えて「準備不足」も決定的な敗北要因でした。
間宮康俊は孫子をも率いてこの出丸に籠りましたが、沼津から攻め懸る七万の秀吉軍を見て自らの死を覚悟して孫の彦次郎を呼び寄せ小田原に逃がすために諭したというお話が残っています。
そちらは三島市のサイトでどうぞ。
さて、間宮康俊が直接仕えたのは北条氏勝ですが、氏勝は山中城落城寸前に脱出して小田原には籠らず玉縄城に帰って籠城します。
尚、山中城を城主として任されていたのが松田康長です。
松田氏に関してはかつてブログ、「惣領と庶子」(13.3.15 13.3.16)「ステキな金縛り」のところでも触れていました。
さすがに康長はこの城を枕に討死しています。
画像③浄土宗宗閑寺さんの一柳直末の墓(右端)のお隣には松田康長の墓。
その左側には間宮康俊、弟らの五輪塔と墓碑銘が。
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