北条の支城 山中城 先鋒は一柳直末

おあむさんの大垣城は秀吉時代、目まぐるしく城主が変わりますが、天正十八年(1590)の小田原征伐で功を挙げた伊藤祐盛が入っていました。石田三成の強引な「豊臣家の上意!!」を振りかざされて退去したものです。

 

 伊藤家が入る前の一柳直末の時代に天守が建てられて、本格的な城の形態を整備したのが伊藤家でしたので、こちらの退去の際はさぞかし口惜しかったことでしょう。

もっとも三成からは「西軍勝利の際は・・・」と色々な恩賞をちらつかされていたことは確かですね。

 

 さて一柳(ひとつやなぎ)直末は数少ない秀吉恩顧の古参武将で大垣城に入った際は役職付の3万石。

その役職とは例の豊臣秀次の宿老です。秀次事件では田中吉政中村一氏山内一豊()堀尾吉晴らと同様に連座御咎め無しのセーフ組。もっともそうは言っても時代の流れで言えば秀次事件は文禄4年(1595年)ですが、伊藤祐盛が功を得たその5年前の小田原征伐(1590年)で一柳は亡くなっています。

 

  彼の奥さんは今年の大河ドラマの「官兵衛」の妹で「心誉春勢」という人です。

よって彼が亡くなる直前に誕生した松寿という長男は官兵衛家に引き取られています。

いずれあのドラマの調子ではそこのところオーバーアクションで演じられるところでしょうか。

 

 彼の死した場所は小田原では無く、小田原の西、前線の城、山中城攻城戦です。先鋒としてあの城を包囲し、一気呵成に攻め上がろうとしたところだったのでしょうか、北条家家臣、玉縄から入って詰めていた間宮康俊の手の狙撃に遭って憤死しました。

秀吉は彼の死に相当のショックを受けて、三日間口をきかなくなったといいます。

ちなみにこの間宮という家系の末に江戸時代、間宮林蔵が出ています。

 

 山中城の国道1号線脇の浄土宗宗閑寺さん(場所はここ)に一柳直末の墓があります。

国道側に一柳家末裔の方の手による石柱が建てられていました。