鉄砲という戦国期の終焉に一役買った画期的武器が種子島に伝来して以来、日本のオリジナルである刀工技術をベースとしてその製造が始まって各地にコピーからオリジナルの鉄砲製造が始まりました。
和泉「堺」・紀伊「根来」・近江「国友」らがそうですね。
山田去歴の娘おあむさんの将来、御主人「雨森儀右衛門」になった人は近江伊香郡雨森出自が推測(その姓は当地浅井配下の今井と並ぶ国人領主)できます。
山田去歴は尾張から出て、たまたま石田三成の家臣となって彦根に禄を得ていましたが、子供たちのおあむさんらの育ちは湖東ですね。
先日記しました田中吉政が国友という鉄砲産地近くの生まれであることを記しましたが、「鉄砲に関わる色々」に関しては殆ど「幼少時」から周囲を見ながらの知識の積み重ねがあったことでしょう。
それにしても鉄砲をコピーできたとしても「弾と火薬と火縄」等の消耗品の製造が追いつかなくてはお話になりませんので、製造所近くには当然にそれらを工作する工業が発達したはずですね。
地元周辺の子供たちはそれらの技術を見ながら育っていったものと思います。
でなくてはいきなり籠城(おあむさん)して鉄砲の弾や、おそらく火縄の製造などの手伝いなどできるものではないですね。
おあむさんは鉄砲の弾製造の最終工程、「バリ取りと真円出し」、いわゆる研磨を手伝っていたと思いますが、先日記した「女子供の籠城時のお手伝い」の「首の化粧」と併せて興味ある部分です。
鉄砲弾の製造は鋳型(野戦用携帯型があったと思います)に坩堝に溶かした鉛を入れ(今で言うキャスト)て造ります。
効率よく製造するために1つづつでは無く、大きい工場では幹から串団子状に枝分かれさせた枝の様な形に鈴なりに沢山の弾が繋がって出来上がったと思います。
冷ましてから型を外し、ズラッと連なった弾たちを切離してから研磨し完成です。
ところで黒色火薬の製造法を確立するにはある程度の時間がかかったでしょうね。
中学理科で習った黒色火薬の製造は硝石(硝酸カリウム)75%木炭15%硫黄10%です。
硝石以外のあとの二種に関しては硫黄など火山国であるので入手は可能です。問題は当所輸入100%で、すべて堺からの依存であった硝石の入手がネックになるはずですね。
ところがいつごろか鉄砲の爆発的な流行に当然の如くその火薬原料の生産は追いついているのです。
さて、どうやって「国産硝石」を生産したのでしょうか。
硝石の化学式は「KNO3」硝酸カリウム。「N=窒素」が光っています。「O3」酸素×3から激しい燃焼が予測できますね。
話は飛びますが、私たちの中学の時分、これを理科室から拝借して、硫黄と桐灰を無茶混ぜして、吹っ飛んだという事故ニュースが2、3件あったことを思い出しました。
今の中学生はそういう遊びをしなくなって良かったと言えばそうですが、一部もっと変な方向に向いていることも事実です。
これらの混合の方法は確か教科書では「鳥の羽」を推奨していましたが、事故例は一升瓶等に入れて棒で混ぜたとかの例でした。
どちらにしろ今で言う花火の導火線程度の素材ですから余程まとめなくては威力は無いはずのものです。
しかし鉄砲には絶対不可欠な素材でした。
さて硝石の露天掘りのような場所は我が国にはありません。
「N」窒素・・・アンモニアが組成式にあるその原料、誰が最初に発見したか知れませんが、「屋内便所周囲の土」から製造したといいます。
どういうメカニズムなのかさっぱりわかりませんが、何となく「窒素系」であるというところがミソでしょう。自然界の酸素とカリウムが「上手い具合に」結合したというものです。
それからヒントを得て、家畜、馬屋等の土から、あるいは糞尿を染み込ました藁等を土に混ぜて縁の下に埋設したり、それのみを製造する施設を造る等、鉄砲配備に並行して火薬の生産性向上に努力していったようです。
画像は「雑兵物語」の挿絵より。
こちらの鉄砲弾の製造具は1個ずつ造る道具ですね。
また、雑兵物語は江戸期に入ってしばらくしてから記されたものです。戦国期からは100年程度経てからのものですので、若干の発展があったかと思います。
こちらでは「便所」では無く「床下」の記述になっていますね。
酔狂な方、「雑兵物語」の挿絵のやり方を真似したら「飛び」ますよ。良い子は絶対に真似しないでください。
あくまでも歴史的資料ですから。
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