「鉄漿」と書いて「おはぐろ」。
「お歯黒」とも書きますが「鉄漿付け(かねつけ)、付け鉄漿(つけかね)」とかいう言葉もありますし、古来から慣れ親しんだ習慣として確認しておくべき言葉として敢えて難しい字を記しました。
これも現代では考えられない、過去の人々からみればごく当たり前の作法です。
「鉄」の字の表す通り、歯を真っ黒に染めてその「美しさ」を競うための染液は茶や米のとぎ汁の中に釘等の鉄をいれて発色させたものです。
艶やテリを出すために今の台所にあるような糖・酢をミックスし、つなぎに澱粉系のものを入れて歯に塗ったそうです。
ニオイも結構きつくて、毎日のお手入れも不可欠と聞きますね。
ドラマ等では気持ち悪そうなキャラの公家や、武家とは程遠いイメージで描いた今川義元などが、「オホホホホ・・・」などと中啓(扇)を口の近くに持って行きながら笑う、といった感じでしたね。
しかし、これは間違った感覚で、その「鉄漿」の日本の歴史は相当古く由緒正しきマナー、正装でした。
決して「キモイ奴」がする風習ではありません。
中学校の弁当の時間、酔狂者が、皆に「ちょっと牛乳飲んで」と言ったあとに持参した海苔を歯に付けて鉄漿状の歯をむき出し、他者を爆笑させて口に含ませた牛乳を噴出させたことを覚えていますが、今の子供たちはその意味さえ分からないでしょう。
何しろ古墳の埋葬者も鉄漿(おはぐろ)して棺から発掘されているそうです。
公家階級では当然の倣いであり、武家世界では真っ先に平氏が取り入れて流行(はや)らしています。
美的感覚の違いとはいえ、室町期では武士階級の元服にはつきものとなり、上級武士では当たり前のマナー、「おしゃれ」となったのでした。
そして本格的に鉄漿(おはぐろ)が消えるきっかけとなったたのは明治三年(1870年)、皇族・貴族に対して「おはぐろ禁止令」が出て、徐々に民間で衰退していったのでした。
そのくらい長期にわたって日本では「おはぐろ」が当たり前だったのです。古墳時代以前はどのくらいから?などとは推測もつきませんが、日本の有史以来この習慣が完全に消えてからたかだか100年なのです。
先般記しました「おあむさん」のお話でもこの「鉄漿」が出てますね。
あの記述の中で一番驚愕した場面です。
だいたい籠城戦となることが最初から予測され、殆ど本隊の兵が出払ったあとの留守居の兵のみの場に女子供が一所に入城しているということも驚きでしたが、彼女らの城内でのお仕事が・・・
「とった首を 天守へあつめられて それそれに
札をつけて 覚えおき さいさい 首におはぐろを付て
おじゃる それハなぜなりや
むかしは おはぐろ首ハ よき人とて 賞翫した
それ故 しら歯の首ハ 「おはぐろ付て給はれ」と
たのまれておじゃったが くびもこはいものではあらない
その首どもの血くさき中に 寝たことでおじゃった」
子供時代から色々な仕事をテキパキとされる人を見て「こんな仕事だけは絶対にしたくない」と「仕事を選ぶ」愚かを叱られ叱ったものですが、あの時代の子供たちには、「大人が取ってきた首のお手入れ」がそのお仕事としてあったのです。
腑におちないのはこのようにとった首に化粧することがあまりにも公然としていますので、自らがあげた首の価値をより演出して首実検等での好評価を得るものであるとも思えません。
首実検は勝ち組の最大公式かつ厳粛なイベントでしたので
その時に備えての用意なのでしょうか。それとも信長による「しゃれこうべ陳列」の件もありましたが、それらは「首」=「死」への厳粛な「作法」だったのかも知れません。
現代においてだれもが「ありえない」と思える親たちへの「お手伝い」も、習慣になれば「何とも感じない」というのは、「果たしてそんなものか」と思った次第です。
画像は「おあむ物語」の挿絵。
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