それにしてもチラっと拝見しましたが、国会に呼び出されて申し開きをしていた新しい公共放送の親分、案外貧相なお顔と「えっ?」という感じの御答弁。
「天下の・・・」放送局のトップとして相応しいとはお世辞にも言えないというところが私の第一印象。まぁ「お顔」で経営するものではありませんが・・・
かといってテレビはノーコマーシャルのあの放送局を除いて(「報道ステーション」は例外的)「見るべきモノ無し」の昨今、CSの衛星放送やPCのみにして視聴料を支払わないという強行手段もありますが、時折、的を射た(得た)素晴らしい番組を繰り出すところはさすがに捨てがたく、とりあえずは様子見にしています(癌関係のリーフレットでもお世話になっていますし・・・)。
「篤姫」以来、「幕末女子モノ」に偏重ギミの大河ドラマ、やはり最近は戦国モノとしても浅井三姉妹の「お江」にスポットをあてたり、女性を主にした演出やその絡みを大目に取り入れたシナリオになっています。
女性ウケしなくてはドラマの経営は不可なのでしょうね。
今節の大河は戦国モノですので、今のところは欠かさず拝見していますが、世間様の風当たり(視聴率の低さ)は如実に現われている様です。歴史離れもあるかも知れません。
娯楽も多岐、視聴者の番組選択肢が広がったこともありますが、上記の如く製作スタンスが裏目に出ている様ですね。
中途半端な状況に陥ってもがきつつ模索していることはわかりますが最近はことに、戦国時代という男尊女卑の著しい時代に、男女のロマンスや出会い、馴初めを挿入したりそれらの別れというものにもことさら悲劇的、情緒的に描いたりで、ハッキリ言って「かったるくて、変!」です。ドラマだから仕方ないですが・・・しかし、時代考証はちょっと今までとは変わったという感じはしています。
出演者も女性受けしそうなアイドル出身者が主演となって脇を固める役者さんは以前見た顔が目立ちます。
私は役者の名は判断不可で、顔と声でしか見ていませんが、「風林火山」で親子を演じていた「今川義元が竹中半兵衛」、不評からなのか次回辺りから降板(通称病気)が決定したナレーション役の「寿桂尼」(同「風林火山」)。そして秀吉役や太平記の北条高時役以来頻繁に同等のキャラで出てくる「赤鼻」はハイテンションすぎて、引きますね。
番組で主役を喰うほどに目立つのです。
お馴染みの顔ぶれの方々はギャラも高く、局としてもシナリオ上「登場機会」に気を使いすぎ、肝心のストーリーについて丹念に進めるというところが欠落してしまう傾向が。初めて官兵衛の歴史に触れる人には「ついていけない」状況に陥りがちになっているのかとも思えます。
クロサワの如くオーディションなどにして人選する必要はありませんが、あまり気を使わないでいい劇団系のテレビ初登場で尚しっかりした芸人を集めた方が新鮮味があって視聴者を惹きつけると思いますね。
何よりギャラが安くあがりますよ。国民の為ですね。
視聴料を隈なく収受しているのですから、公正な番組を作っていただければいいのですが、今一つ首を傾げたことをもう一つ。
来年の大河ドラマは既に決定していますが、私も既にそれは「見ない」と決定しています。
内容もまったく興味の無いところですし何より恣意的で強引な脚本の選択が行われた感が拭えませんね。
「吉田松陰の妹」を篤姫や龍馬と同じプロデューサーが描くそうです。
やはり「幕末女性モノ」に拘ってそれを踏襲するのですね。
「あまりにも能が無いな」とため息しつつ、これを聞いて「なるほどな」と思ったのは、前回の「八重の桜」にて散々長州に痛めつけられ続け「逆賊・朝敵」とまで貶められた会津藩諸士がストーリー中「長州の奴ら・・・」等、罵る場面が散りばめられて各方面から苦情が寄せられたというニュースを思い出したからです。
ストーリー上会津藩が長州藩を罵倒したり憎しみを抱くことは歴史に照らしても致し方なく自然です。なによりたかがドラマ。
そのことに苦言を申すとは「かなり暇人が多いことだのぅ・・・」と苦笑したものでした。
オモロ無かったらチャンネルを合わせなければいいのです、私の宣言するごとく。
おそらく放送局としてはその罪滅ぼしだったのかも知れません。
それとも何らかの圧力がかかっての今度の選択だったのでしょうか。
もしそういう意図で大河が製作されるのでしたら前代未聞、歴史上人物としてインパクトに欠けることは勿論、史上最低の視聴率を更新するような気がします。
朝の連続テレビ小説並の展開が予想でき昔の様な大河ドラマの感じがしてきませんね。
日曜夜に毎週拘束されない嬉しさもありますが。
朝敵・逆賊と執ようにその言葉を使って会津を追いつめた長州軍、実を言えばその言葉、当事者からは「禁忌」だったフレーズ。
それを相手(会津)に使われる前に立場が優位になった瞬間、例の「錦の御旗」をゲットして瞬間移動。
今度は逆に一方的にその「逆賊」という言葉を殴りつけるように連呼し、周囲に知らしめて刷り込み、自らの正当性を作り上げちゃったのでは?・・という歴史的一説もあることも事実です。
そこのところのテク、バレて会津に再逆主張される前に完膚無きまでに壊滅させる必要があったのでしょう。
そのことは和解や降伏を拒絶しつづけた不可解さからもうかがえます。
画像は京都御所蛤御門の長州藩発砲の銃痕(蛤御門の変・禁門の変)。
一旦京都を追放駆逐された長州藩が元治元年(1864)に京都守護職の松平容保(会津藩主)に恨みをもち、京都御苑を護る京都守護と薩摩の連合軍に向かって攻めたて、京都市中に火をつけ敗走したといいます。
御所に向かって発砲、弓をひくことなどはそれこそ前代未聞の暴挙でした。
当初は長州藩が何を隠そう「朝敵」だったのです。
以前にも記しましたが、その時の火事で東本願寺は悉く焼失し、以後長い間当流はその再建のための苦渋を味わった歴史がありました。
そういう歴史は捻じ曲げてしまいたいという人もいらっしゃると思いますが事実は事実、あの弾痕がそれを物語っています。
次回大河が家康や伊勢宗瑞でなかった腹いせの憎まれ口を綴ってしまいました。お許しを。
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