今川水軍は摂州水軍が大元? 伊丹康直 

桶狭間の際、主君今川義元の首と鳴海城を交換し、帰りがけにその駄賃にと刈谷城を落すなど今川家譜代中、雪斎に次いで岡部元信(「元」は今川義元の偏諱)の名はその内外に響き渡りました。

 彼の父岡部久綱(出家して常慶)は武田信玄に追放されたその父、信虎の隠居の件について折衝するため義元の命により雪斎と甲府の躅ヶ崎館の信玄の許へ赴いています。

 

 その岡部元信の妹が嫁いだのはあの荒木村重の築いた摂津有岡城の前身、伊丹城(細川家臣団)の伊丹元扶(こちらの「元」は細川政元の偏諱)の子、千代松でした。

千代松(のち雅勝)は伊丹城落城の際に摂津を脱出して駿府に流れてきたといいます。

 

 敗北滅亡流浪の者に今川家家臣団筆頭ともいうべき岡部家の娘をあてがって今川家臣団にすんなり受け入れたということは、伊丹家が当時から摂津の城持ちの有力者として著名であり、そのような情報も京都との太いパイプがあった今川家ならではの大抜擢だったのです。

 

 当初の義元時代は「都から来た」を名刺代わりに「今川同朋衆」として「〇阿弥」を時として名のり、駿府にて今川家の文化系客人としての立場だったのでしょう。

「〇阿弥」等の名は足利義政が植木職人に直接会話できるように時宗の僧名を名のらせたことが知られていますね。

 

 芸能人(能)にもその名を与え、将軍と「同席」できるようなウルトラCの「公的緊急つじつま合わせ」を行っています。

一般人が将軍らと同じ場で、まして「口をきくこと」自体あり得ない時代でした。ただし「僧的身分ならOK」だったのです。

 

 さて、石山本願寺のある摂州(摂津)と言えば、一説に軍船「安宅船」の由来とも云われている淡路近辺にて海賊働きをした安宅(あたぎ)氏がありますが、駿河に流れ着いた伊丹家末裔の千代松、改め雅勝の今川義元没後、氏真配下の新役職は「海賊奉行」でした。

 

 いわゆる「今川水軍」を組織したというわけですが、「水軍」というものは一般的な陸戦を得意とする武士がイキナリ抜擢されてそれを率いられるというものでは到底あり得ず、ある程度の水上での戦闘経験が無くては、出来得なかったと思います。

 よって伊丹氏に伝統的に水軍があって、それなりの伝承を受けていたということが推測されます。もしくは駿府逃避行に彼と同行した老獪な家臣団がその経験をアピールしてその特異なポストを若殿にゲットさせたという推測も成り立ちます。

 

 摂州海賊の系譜がこの駿河湾を一時的に走り回っていたということでしょうか。

今川没落とともにこの水軍が武田水軍と発展し、武田滅亡後は家康に吸収されたという構図は、この地方にあった有力国人層の流れと同じです。

 最後に彼が名のった「伊丹康直」の「康」は家康の偏諱とのこと。いずれにせよ海に出られる(詳しい)武士団は重宝されたものです。いわゆる特殊技能によるポストですね。

 

 また、御屋形、大将が変わって何かの手柄をたてたとして「○の字」「○○の名」を「名のる事を許す」と云われることに「ありかたきしあわせ」などと平伏して時々名のりを変えるのは現代人の感覚からすると相当の違和感がありますね。

どんなに嫌でも「結構です」などと断る予知はまったく無かったでしょう。秀吉などは豊臣姓を家紋の五七桐と同様に乱発していました。有り難いやら困惑するやら。まぁ適当に流して、相手が死んだら元に戻せばいいだけですけどね。

というか豊臣→徳川と大将が変わってたあと、もらった「豊臣」など名のれるはずもなく。

 

  氷がうっすら張った27日午前、知り合いに誘われて「ベイライナー」に乗船。相良沖、20ノット以上で風を切れば穏やかに感じましたが、ドライブを中立にしたら物凄い揺れ、推力の無い小舟の時代、海戦も廻船も相当難儀するでしょうね。

素人がひょいと出て水軍を統率することなど絶対にできないことです。

 

赤丸印は沖からの相良のランドマーク。左が女神山(石灰山)に右が粟ケ岳。②が富士山。