旗本 成瀬蔵の三男 鼎(かなえ)の墓 大澤寺

足助成瀬家七代の成瀬藤蔵正義の弟、成瀬吉衛門正一は兄と同様出奔した後、武田家で戦働きをし、川中島(第四次)にて石黒五郎兵衛と共に上杉方に討取られた諸角虎定の首級を取り返すなど、武田信玄に感状を貰い、その後北条氏康の誘いを断って三河家康の元に帰りました。

 

  三河に戻ってからは長篠の戦いでの武田方旗差判別と鉄砲組頭の活躍等が長篠合戦絵巻に描かれ、高天神戦では家康の包囲網、六砦を仕切る軍監としてその名が記されています。

 

 その正一の兄、三方原で亡くなった正義(犬山成瀬は正義の息子が入る)から家督を受け成瀬旗本家を幕末まで繋ぎ継いだのが明治初頭に相良に流れ着き、相良油田に関わることになった成瀬蔵でした。

 

 明治六年(1873)成瀬蔵(→2014.1/13 2013.12/28)は3人の男の子に恵まれ、新政府の木端役人にまで身を落したそのしがらみからも離れ、ましてや新就職先の相良油田の油の算出が良かった当初はまさに意気軒昂、将来有望の28歳だったでしょう。

 

 その年の11月19日三男の鼎が生れ、12月には「石油会社総代准肝煎」(「石油借区開坑願」~明治初期しずおかけん資料)という肩書で、工区を広げるための願書を県令を通して新政府鉱山頭へ提出しています。

こちらの許可証は「工部卿 伊藤博文」の名で下付されています。

 

 その月は「家禄奉還の制度」が開始され、蔵はまとまった現金も手にしていたと思います。

この制度は新政府が負担し続けていた士族家禄を少なくするための制度で、その権利を政府に返還することによって「6年分を現金と公債の半々」で得るというものです。

 

 そのようにこれから「気張っていこう!」矢先に起こったのが生れたばかりの鼎の夭折です。

当時としては生まれて数月の子供に対する墓石としてはあまりにも立派な伊豆石を取り寄せて墓碑建碑としています。彼の悲しみの表れでしょう。

 

 その後明治11年の石坂周造の借用書にその名が記されたあと、明治17年の油田最盛期を迎え、どこかの頃合いを見て相良を退去していったのでしょう。

 

 このたび、以上の件を既報の通り林信志氏に御調査いただき墓碑存在の経緯が判明したことにより、墓碑後方に掲示板を掲げ、当山にて永代に護持させていたたくこととしました。

 

墓碑

正面 成瀬鼎之墓

右面 明治六年癸酉年 第十一月十九日 出生

左面 明治七年甲戌年 第一月十三日 殂

裏面 成瀬蔵三男