そもそも井伊家はこの人が居なければガチ(絶対)に滅亡していたと断じても過言では無いでしょう。
おおまかなところは「井伊谷城」のところで記しましたが、その人の名は新野左馬助です。
こちら相良辺りで「新野」(にいの)を聞いて、①原のことか②下ったところなのか、単純にいわゆる字(あざ)、地名を思います。
相良大沢あたりから「原」に上がって鬼女新田から更に西に、あるいは、相良菅山から「原」に上がって塩買い坂方面には進まずに南へ折れれば次の交差点が「新野原」。
右方向が塩買坂になりますがそのまま坂を下って南西方向が「新野」です(場所はここ)。
御前崎に「城は無い」と断ずる人が居ましたが実はこの地の新野氏が絡む「舟ケ谷城」とその支城、おそらくそれ以前からの土豪、高橋氏による「天ケ谷の城平」等が点在していました。
桶狭間以来、家督を執った今川氏真の手腕の脆弱性が露見しきって今川家中が武田と徳川両家の切り崩しもあり、主従とも疑心暗鬼に陥る中、ずっと氏真に従ったのが新野氏でした。
井伊谷の井伊直満が義元に自害させられ、養子入りした養父の井伊直盛は桶狭間で義元と首を並べ、直満の子の井伊直親が永禄五年(1562)、氏真に謀反を疑われて(無実で)殺されるなど、今川家では殆ど「負け組」。謀反人の家系と呼ばれても仕方ない状態で衰退は明らかでした。
ご当地新野左馬助親矩(ちかのり)の妹は井伊直盛の奥さんで井伊家とは親戚関係です。上記の井伊家中最悪状況で幼少嫡男は当然ながら逃亡。
ここにその直親の遺子、虎松を左馬助夫婦がアホな御屋形様(氏真)から匿ったのでした。
新野佐馬助は永禄七年(1564)に引馬城攻めに氏真軍として出陣し城主飯尾連竜(つらたつ)の手に討ち取られています。
その後遠州を平定した家康により新野より家康にお目通りした虎松が万千代と改名し井伊家当主を相続しました。
この虎松が徳川四天王とまで呼ばれ「井伊の赤備え」という勇壮無比の軍団を組織した井伊直政です。
彦根藩、大老井伊直弼は新野家の御恩と墓参を計画していたそうですが、あの桜田門外の変が起こり、その夢は叶わなかったといいます。
祠の左右に五輪塔残欠。立派な碑が建っています。
光の加減で酷く読みにくいですが一応・・・。
最後の画像は御前崎市産業振興祭りでの左馬助茶屋。
知る人ぞ知るその御名です。
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新野小菜 (日曜日, 09 4月 2017 23:18)
私の名字は群馬県や彦根藩が由来とされているのでとても興味深い記事でした
今井一光 (日曜日, 09 4月 2017 23:38)
ありがとうございます。
新野さんですね?
ようこそ拙ブログにお越しいただきました。
文科的地籍要素の見いだせなかった御前崎市にとってこの降ってわいたような
「新野」のご縁はビッグチャンス。大いに盛り上がりをみせています。
私にとっては隣の自治体となってしまいますが、応援しています。
是非に遊びに来てやってください。