三河岡崎から遠州へ、天竜という大河を超えて旧来の主家今川の旧領深く浸食、切り取りの端緒についた徳川家康はそれらを確固とする本拠地を新たに選定する必要がありました。
普通に誰が考えても遠江国の首都は国分寺のあった「見付」であり家康も当然に見付を視野に入れて築城を開始しました。まったく違和感の無い選択です。
というわけで新城着手が行われたのがこちら(場所はここ)。
見付端城の平城ではいくら何でも心もとなさを感じてこちらの丘陵を選択したのでしょう。
「城山」という昔からの地名もそうですが家康が「こちらに本拠を」と食指を動かす以前から土塁空堀等の城郭形式の館があったようです。
台地上背後は東海道、現国道1号「権現」交差点を南下、その左側の丘陵、現在の磐田城山球場、城山中学校の辺りです。
その道をさらに行った場所にそのものズバリ「城之崎」とい交差点の地名があり、その先が「今之浦」に「鳥之瀬」、おそらくこの城の鼻っ先には遠州灘が広がっていたのでしょうか。ちなみに東側の谷は「安久路」→これは「悪路」の当て字と勝手に解釈すればやはり見付端城から見て格段防御性が上がったことでしょう。
永禄十二年(1569)1月、家康の命により山本帯刀成行の縄張で一旦は着手させたものの元亀元年(1570)6月、家康は途中で気が変わって浜松引馬城に後退しています。
交通の要所で、遠州土豪諸士に号令を掛けるに相応しい場所で未練はあったことでしょうが、「爰ハ不被可然」(ここはしかるべからず・・・三河物語)です。
最近はよく「ブレない」などといって一つ決めたことを最期までやり抜くことこそ素晴らしいのだということを耳にします。
この件、家康の当初の計画、目論みを大いに転換して、また巨額の投資資金も顧みずスンナリと退去してしまったワケであり、結果的に今風に言えば大いに「ブレた」例でもあります。
しかしこの家康の大ブレの判断は、信長からのアドバイスがあってその結論を得たというのが通説ですが、現実問題として3年後(元亀三年)の三方原戦で武田軍を迎え撃つに際しおそらく日本史を変えるような大きな出来事だったのかも知れません。
「ダメと判断したら即転換」こそが立派な処世と唸らせます。
一つのことに拘ってしがみつくことを「頑な」(かたくな)と言いますね。「頑な」とは恥ずべき態度、大いにブレ結構。
ブレているからが人間の証です。何より「臨機」を。
蛇足ですが「頑な」には「他者を押し退ける」という意を含みますし、「見苦しく劣っているさま 愚かで下品なさま」とも。
「頑なに張る」という言葉、見苦しいこと甚だしいことがお判りになると思いますが、不審の方は各各お調べを。
幾度か記していますが私は「頑張る」は不使用、代わりのメッセージに「気張る」をおすすめします。
しかし金輪際不使用と心に決めてもどうしても時々口にしてしまうのはこれまで何の気無しに口に出した習慣の恐ろしさですね。言葉は選ばなくてはなりません。
阿呆の坊主のくだらぬ拘りとでもお笑いください。
ちなみに信長の意見は勿論、
①天竜「背水の陣」
②信長後詰の不利 といいます。
台地上主郭想定地が球場、そして城山中学が別郭だったのでしょうか。球場を囲む周囲が土塁跡。
⑦は権現の杜、山住神社、北側の高い位置にあります。
⑧は東海道「権現」交差点。
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