「成瀬蔵」の身の振り方 相良城二の丸

この成瀬蔵の詳細について判明させてくださったのは既報の通り、日坂成瀬の末、林信志氏でした。以下林氏の取りまとめた資料を元に。

 

 将軍という天下を納める特別な地位から駿府70万石(旧徳川直轄領700万石)の平凡な大名クラスに、殆ど江戸を追い出されるように成り下がった徳川家。

それまでの徳川家を支える大家臣団はそれぞれの身の振り方を考えなくてはならなくなりました。

おおまかにどの様な選択肢があったかといえば、

 

1.「朝臣」―徳川を離れて新政府に出仕する

2.「御暇」―徳川を離れて各自生計をたてる

3.「無禄御供」―俸禄保障無くとも徳川に従う

 

相当な実績か政権にコネがなくては上を狙うのは各各無理だったでしょうが、1が5000人、2が600人、3が15000+田安・一橋両家5000人だったそうです。露骨な反薩長新政権の旧徳川家中武闘派は入りません。

もっとも戊辰戦争終了後に生き残った人々もそれぞれの身の振り方は同様のものです。

 

当時23歳の成瀬蔵は「因幡守2400石」、先祖は徳川家恩顧の三河武士、徳川譜代の家として当然の如く駿府へ同行したことは先日記しました。

 というわけで林氏はその「無禄御供」、駿河移住関係の資料をあたったそうです。

そこで目に留まったのが「駿河へ移住した徳川家臣団」(前田匡一郎)。そちらには約3900人の旧幕臣の名が記され、「成瀬蔵」についてもその名が数件に渡って記されているそうです。

概ね略歴を記すれば・・・(Nは全国成瀬会会報から)

 

★弘化二年(1845)三月 大久保家にて生 (N)

★          その後本多家へ(N)

★安政(1854)~文久(1863)の頃 成瀬家へ養子(N)

★慶應四年(1868)三月 23歳 家督相続(N)

★  同年 七月 使番目付介(「駿河表え召連候家来姓名録」)

 

「駿河表え召連候家来姓名録」には

「家老 平岡丹波」を筆頭に

「幹事役 勝安房・山岡鉄太郎」、そして

「使番目付介 成瀬吉右衛門蔵」の名が2525名中、33番目に。

 ★  同年 八月 江戸小石川(文京区小石川5丁目)より駿河に移住

★明治元年(1868) 駿府深草町の柘植平八郎屋敷跡居住

 2400石→四人扶持→八人扶持(「明治初期静岡県史料」)

 

禄、給金はだいたい1/100以下。

「蔵」は「使番目付介」という別の手当があった筈ですが、どちらにしろ、駿河での前途は厳しいものがあったでしょう。

 

★明治二年(1869) 御目付助 成瀬吉右衛門

                 (「駿府藩官員録」)

★明治二年(1869) 版籍奉還(→明治四年 廃藩置県)

 

★明治二年(1869) 相良勤番組の頭並

  (「相良藩奉行廃止付 勤番組心得伺」静岡県史資料編)

1万数千人の旧幕臣を藩内9箇所の旧奉行所のあった「役所」に配置したもので、ここで初めて成瀬蔵が相良の地にやってきた足跡が出てきたわけです。

 相良藩は田沼時代5万7000石の領地がありましたが、失脚以降天領化し幕末には田沼意尊1万石でしたが復活しています。そちらに662人の旗本以下侍たちが家族を連れて相良に入りました。その相良勤番組の「頭並」とはNo.2

のことでいわゆる「副」というポストが与えられて相良に入ったということです。

 

★ 明治三(1870) 「静岡藩準12等出仕」(明治初期静岡県史料)

中央の太政官左右大臣が1等、大将2等、参議3等・・・

★明治四(1871) 「静岡藩権大属準席」(明治初期静岡県史料)

より給金が下がっていることが推測できます。

★明治四(1871)  廃藩置県「浜松県貫属士族準席」

                   「勤番組」廃止

★明治五年(1872) 家禄十二石六斗に(さらに一割程度)減給

                (明治初期静岡県史料)

★明治五年(1872) 浜松県12等出仕(さらに減給)

                (明治初期静岡県史料)

★明治六年(1873) 出仕差免    (明治初期静岡県史料)

駿河御奉公も時代の流れとともに制度改革が進み、ますますお手当の方は減る一方、バカバカしくてやってられないと思うのも無理は無いでしょう。

そんな時に振ってわいた朗報が明治五年の相良での石油の発見。

旧幕臣、浜松県士族の村上正局が「臭い水」で「農作物が枯れる」との上申を受けたことが事の始まりです。

そこに石坂周造がカネの臭いを嗅ぎつけてトントン拍子に採掘話が進んで行きました。

 

回りの士族に声を掛けまくり出資者を募って会社組織にしたわけですが、当然にそのイイ話に成瀬蔵は飛びついたのだと思います。安月給の役人を続けるよりも「勝負」に出たということでしょう。

 

★明治六年(1873) 出仕差免より2か月後に「石油採掘願書」

その時の役職は「静岡県貫属士族 成瀬蔵」、13名連盟のうちの一人。相良採掘許可を受けるため浜松県令を通じて政府工部大輔へ提出しています。

★明治六年(1873) 石油会社社員 

「皇居炎上に付献金の石油会社人名簿」「静岡県史 史料編」

上記の石油会社人名簿には皇居侍従だった山岡鉄舟ほか210人の名があってそのうち33人が静岡県、浜松県の貫属士族だったそうです。

はたしてどれくらいの人たちが相良油田への出資金を取り戻せたのか興味あるところです。早めに見切りをつけた人は傷が浅かったでしょうが。 

「相良勤番組」書面に「頭並 成瀬蔵」という名が登場するものは

★明治三(1870)5月 「学校所御修復之義二付申上候書付」「静岡県史 史料編」

「相良表え医師御引移之義二付相伺候書付」「相良町史 通史編」

明治三(1870)8月 「相良表御役所并御役宅御取建之義二付相伺候書付」「静岡県史 史料編」

明治三(1870)10月 「遠州城東郡横地村陣屋開墾方之頭江引渡候儀二付相伺候書付」「牧之原開墾の曙 覚書」

「東西萩間村続荒嚝原之場所割合儀二付申上候書付」「牧之原開墾の曙 覚書」

 

明治三年頃の「相良城跡図」には勤番組諸士の名が連なっていますが成瀬蔵はこちらで2番目3番目程度の広さの屋敷に住んでいたようです。

画像は相良城二の丸土塁跡。現相良小学校グラウンドにあった屋敷が勤番組上層部に充てられたと思います。

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (月曜日, 13 1月 2014 08:57)

    松の切り株を見ると痛々しさが身に沁みます。
    それでも切り倒された後に、小さな松が育っています。
    百年後には大きくなってくれると思います。

    今年もよろしくお願いします。

  • #2

    今井一光 (月曜日, 13 1月 2014 22:10)

    ありがとうございます。
    松は大木になってその勇壮さを誇りますがどうしても寿命がありますね。人間もずっとちっぽけですが同じです。
    其処へ来ていろいろな難題(松喰い虫、大気汚染、土塁上での根の不生育)を抱える中「よう長い間気張ってくれた」と讃嘆感謝する他は無いのでしょう。
    できるだけ相良の宝物を枯らさないよう樹木医等からの科学的見地からの意見を取り入れて残った松たちを「健康で長生き」させていただきたいと思います。
    尚尚
    よろしくお願いいたします。