駿河館鬼門を護る愛宕山城の麓には、さらに「駿河の館を護ってもらいたい」と、弔われた人が鎮座しています。
いや、むしろ自らその地、鬼門に入り鎮護駿河を目指したと云われています(「死しても今川の守護たらん」)。
洞谷(とうや)山竜雲寺(場所はここ)は「龍雲寺殿峰林寿桂大禅定尼」、通称「寿桂尼」の菩提寺となります。
今川駿河を「小京都」と言わしめたように京都の公家の娘(中御門権大納言宣胤)、今川氏親(九代)に嫁ぎました。
生誕時は不詳、婚姻が永正五年(1508)説をとってその時を13歳と勝手に決めれば永禄十一年(1568)没年は判っていますので73歳。
御主人の九代今川氏親が中風(脳卒中?)で伏せるようになり、遅くとも55歳前に亡くなってから、家督を継いだ十代目、長男氏輝が14歳の時。やはり健康状態に難があって23歳で死去しています。
そして家督争いの花倉の乱を経て五男の義元が十一代家督相続しましたが当初御当主は政(まつりごと)の右も左もわからない18歳。大いに寿桂尼が尼将軍として手腕を振るっています。
その今川義元が当家絶頂、戦国大名として「東海一の弓取り」の覇をとのえたものの永禄三年(1560)の桶狭間にて41歳で亡くなり、その子氏真が22歳で今川家を名実ともに十二代として相続しました。
寿桂尼60代後半としてそれでも政にはバリバリ口を挟んだことでしょう。
今川家当主4代に渡って手腕を振るった人ですがいくら当家当主存命に不運が続いたといえ、彼女がいつまでも前面に出ていたのは『氏真の「無能」=今川家滅亡』に少なからず影響があったのではないでしょうか。
現在では寿桂尼は尼将軍としてのその途の暗躍にもその力量を評価する風が見られ、今川家滅亡はひとえに「氏真の無能」にあるといわれていますが、私はそれこそ良き軍師、良き家臣に恵まれなかった氏真の不運に肩を持ちたいところですね。
大河ドラマ「風林火山」では義元、寿桂尼二人の会話に氏真(当時は当主継承済)が口を挟んで、寿桂尼に「阿呆!」と罵られ、義元が苦虫を潰したような顔になったことを思い出します。
脚本も自然にああなってしまうのでしょう。
武田信玄の駿河侵攻が寿桂尼の亡くなった年ですので寿桂尼亡き後の今川家臣団の脆弱性を駿河侵攻の大いなるチャンスと見るところも元の親戚筋ならではの信玄の差配で感服します。
しかし結果として寿桂尼自ら「鬼門封じ」としてあった役割はまったく役に立たなかったという皮肉があります。
ここに昨日につづき「高天神城実戦記」各輪城の段、最後の部分に今川氏真について記していますので略記転載します。
「さて、今川氏真は弱兵衆を戦わせ、泥に酔った魚の如く、目の前で味方が攻め殺されそうになっても、かなわないとみるや、救ってやろうとする心も無い。
薩埵山で信玄の兵を見て、戦う気力も無く、逃げ回った。
今は朝比奈備中守の勇気のみで、掛川に短期間籠城するにしても、いかにして戦いに勝ち、運を開くべきか、それすら考えない人だ。
今川家に従う心ある人も、氏真の味方を捨ててしまう姿を見て、これではと、甲州方あるいは徳川方へそれぞれ縁を求めて行ってしまう。
言うに尽せぬことだが甲斐性の無い弱い人だ。
心ある者でこれを嘆かない人はいない。
今川家はこれで家が跡絶えよう。
これも天の戒めであると世の人は言っている。」
画像は真夏にうかがった図で草ボウボウ。蜘蛛の巣だらけ。
笠の大き目な五輪塔にもう一つ五輪塔の二基が竹藪と藪蚊の中でお待ちかね、
どちらが寿桂尼のものか、あとの一つがどなたのお墓か、判明していません。
⑦は寿桂尼使用の印影の碑、「歸」という字でしょうか。
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