昨日は往生要集「出息入息 不待命終」について記しましたが、その完存本のある青蓮院、京都東大谷(大谷祖廟等)にもほど近い三条粟田口の天台宗のお寺です。
当流親鸞聖人から蓮如さんまで代々本願寺のこのお寺への関わりは深いものがありました。
言ってみれば比叡山一流青蓮院の傍流、「本願寺」はその「末寺」という関係だった時期があったのです。
蓮如さんは以来「本願寺」を今の本願寺の形へと歩ませた人でしたが、永享三年(1431)に17歳でこの青蓮院にて得度しています。
それより前、応永十五年(1408)にこの寺の「門跡」となって同二十六年(1419)には天台座主、大僧正まで登りつめた人が、あの籤将軍、「万人恐怖」政治を執った足利義教(→120606、120609)です。
室町幕府六代将軍足利義教は父義満に倣うこと多く、永享四年(1432)駿府への下向、いわゆる「富士遊覧」のため駿州を訪れています。
その年の9月10日に京を発って18日には「将軍御成」にあわせて今川範政が建てた「望嶽亭(ぼうがくてい)」~駿府今川館城内推定、小和田先生~に入っていますが、そちらへ入る前日、17日に投宿したのは藤枝です。
駿府からの富士借景の宴の前日にこちらの山に上がって富士山を楽しんだとのこと(場所はここ)。
富士見平(標高110m)と姫平(80m)はその時の御一行様の富士観覧の場だったことからその名が付けられたと云われています。
尤もこの物見遊山には箱根を超えた向こう側、鎌倉公方、足利持氏(三の姫さま)を牽制するという意図もあったことは明らかです。結局、永享十一年(1439)「永享の乱」にて鎌倉公方の持氏は滅んでいます。
「富士見平からの日没」とは逆、東の方向。
私が登った当日の富士はうっすらですが高草山Bと潮山Aの間から顔を出していました。③が姫平から見た富士山。
またいつかハッキリした富士にチャレンジしたいと思います。
ところで足利義教がこちらに登った日がやはり快晴で空気が澄んでいなかったら感動もへったくりも無かったでしょうね。
当時のお天気がわかれば面白いことだと思いました。
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