「笑止や」は「勝事や」で 言い得て妙

蓮如さんの御文のフレーズ、昨日の「息」についてもそうですが、経典から引いてきた表現が多くありますね。

出典も知らず、何らかの示唆する意味をもわからずで私たちが今これらをなんとなく聞いて、あるいは初めてのこととしてむしろ新鮮なイメージを抱いたりもしています。

ところが記す方も記す方で其処の所聞く方も「ほうほうなるほど」といった感じで聞いてくれるものとして語っている感がありますので、そう思うと当時の人々の宗旨・教義・仏典に関する知識は半端無いものであったことも推測できます。

 

 さて「息」の件、源信(恵心僧都)の「往生要集 巻上」にありました。

 

『~ 有頂も輪廻 期なし いはんや余の世人をや 

事と願と違ひ 楽と苦とともなり

富めるものは いまだかならずしも 寿あらず

寿あるものは いまだかならずしも 富まず

あるいは昨は富みて 今は貧し

あるいは朝には生まれて 暮には死ぬ

 ゆゑに経にのたまはく

出息は入息を待たず 入息は出息を待たず

ただ眼の前に楽しみ去りて 

哀しみ来たるのみにあらず

また命終に臨みて 罪に随がひて苦に堕つ」 と』

 

源信さんもどこからかの経典から引っ張ってきた様ですね。

蓮如さん御文の如く「散々落して持ち上げる」ではありませんが源信さんもこれらの言葉のあとに如何にお浄土が素晴らしいかを記しています。

 

しかしこれも「本当の事」、味のある言葉ですね。

強がりと儚い夢ばかり見させられ、語られ、やはり私たちもそれが心地良くあるのですが、実をいえば現実は「ささらほうさら」の人生だということに気が付かなくてはならないということでしょう。これも面白い言葉です。

 

 「ささらほうさら」とはNHKの時代劇にありましたが信州甲州の方言だそうです。

意味は「幾度も重ねて酷い目にあう」転じてあたかも当ブログのコンセプト?の如く「支離滅裂である」、「でたらめだ」という意とのこと。

 

 まぁある意味「人として」生れればそこの所、誰もが感じるところであって、譬え有頂(天)であったとしてもそれがいつまでも継続することなどあり得ないのです。

それにしても「事と願と違ひ」は今節風、丁度の風刺で痛烈です。

各々人々それぞれの「お願い事」が叶うべく年初に人々が大挙する場を拝見いたしますが、その「願」と現実の「事」とのギャップを指摘しているが如くです。

それらの人間の振る舞い、御文では「坊主の体たらく」だったわけですが、それを「あらあら笑止や」と。

 

 「笑止」といえば時代劇等で「千万―甚だしい」という語が付いて「笑止千万片腹痛い」の如くの使い方の通りで相手を小馬鹿にして挑発するような言葉でもあります。

 

 ちなみに「片腹」は元は「傍ら」(側)に居て(居たたまれない)「痛い」ということの様。

 ところが「笑止」という言葉、残念・困る・恥ずかしいという意味もありますが御文によっては「勝事」と記されています。

こちらの方の直接の意は「ただ事ではない」「すばらしい」など善悪両方の意味があります。

現代各地に残る方言でも「しようし」=気の毒、恥ずかしい、ありがたいを意味する言葉として使われていますがおそらくこの流れでしょう。

御文の前後から解釈できる訳としては「残念、痛い!」だと思いますが、こちら笑止=勝事とすると何か「言い得て妙」の感。

「勝つこと」(豊かさ)ばかりに思いをかけるということが「痛い」というのですから。

誰か勝てば負ける人が必ず出現(zero-sum ゼロサムゲーム)するということです。それを「願おう」としていたら大いなる仏教的矛盾となりましょう。