一ノ宮城(真田城)の役割は大いに小国神社の「守衛」の意味が強いでしょう。
あたかも「狛犬」の様な感じで参拝、通行の者たちに目をやったと思います。
しかしながら堅牢さに欠くあの城と神官を兼ねた国人レベルの守護代、地頭職の勢力では到底三河勢に抗うことなどできる筈も無く、呆気なくこの地を放棄したことは想像に難くありません。
真田城の看板に武藤刑部丞氏定が高天神城に籠って討死し子孫は当時の土方村(旧大東町―掛川)に土着したとありました。
真田城のある段丘の東側に開けた斜面には武藤刑部丞氏定の建てた武藤家の菩提を弔うお寺があります。
勿論、武藤家一族子孫の存在が判る新しい碑と武藤氏代々の墓石が。
鹿苑山香勝寺(場所はここ)という名は「鹿の園」、西側段丘上の真田城で見かけた鹿を想い起こします。
こちらのお寺の「ウリ」は夏で、別名「桔梗寺」と云われる所以です。
墓の持ち主の特定は難しいですが、苔生した宝篋印塔等の墓石たちが迎えてくれます。お花が好きな人は夏の侯がおすすめですが、墓地はといえば蚊の襲来で閉口させられます。今の季節が最高ですね。
③は香勝寺の裏山の茶畑からの香勝寺本堂と山門越えの森町の図。掛川方面を向いています。
画像は09年の夏に訪問した時のもので目の前の新東名高速はまだ工事中でした。
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