貨幣経済発展の途上にあった室町時代後期は勿論、以後江戸期を通してその経済の根幹にあったのは「米」でした。
武家惣領と庶子そして一族郎党、配下の者への安堵は土地やその土地で収穫される米あるいは米の現物支給によってなされましたが、その米を銭に替えるなどして蓄財し、または他の品物の購入に充てました。
銭が普及したとあってもやはり「米本位」であって、それこそが経済の規範であり続けたことは言うまでも無いことです。
その取引には元となる一定の計量器具が無くてはなりませんが、当時は日本全国同じでは無かったようです。
地方地方で計量する道具が違っていたのですが、当時の人々はその辺り熟知していて、たとえば異方式の計量器具を採用している地との取引がある場合等用の「換算表」の様なものがあったのだと思います。
江戸時代、相良代官に着任した小島蕉園の時代に甲斐田安家領で頻発した百姓一揆(~太枡騒動)の主だった理由もいわゆる悪代官たちの年貢徴収時に使用した計量器のインチキの横行でした。
ちなみにインチキの手法は簡潔で、たとえば「新枡」として1割増し程度大きくした枡を新調更新しそれを使用させることにより、本来年貢の差額1割を自らの懐に入れるというものです。
これは「役人=汚職」のイメージを日本人に決定的に植え付けた歴史の一つですね。
計量器といってもこれは日本全国一言で言って「枡」のことです。当地区では勝間田城発掘調査で馬洗場から出てきた木簡に「萩間枡(はぎまます)」の記述があります。
小和田先生は世にいう「榛原枡(はいばらます)」そのものかその産地であろうと推測しています。
牧之原台地上にある勝間田城から見て相良辺りの海岸線沿岸に住む人たちはそうイメージすることは難しいのですが萩間の地と勝間田(榛原)の位置関係は谷山隔ててほんの僅かな距離です(おおまかな位置関係)。
「榛原枡」を「世にいう・・・」と記したのは小田原北条家の文書に公用枡として記されていることからですが、推測するに勝間田から今川時代にかけてもこの地で生産された枡が重用、公用と為されて、今川家を経て伊豆、小田原そして関東に勢力圏を伸ばした伊勢(北条)も同様に使用して広まったものだと思います。
いわば戦国期、駿遠関東における計量器具のスタンダードだったのでしょう。
『北条氏所領役帳』の編集にも関与し、北条家の出納関係を仕切った奉行の安藤良整という人がその「榛原枡」を公用として大いに広めたので別名「安藤枡」とも呼ばれています。
「日本計量新報」によると
『小田原の後北条氏は公定枡の「榛原(はいばら)枡」で計り、貫高百文当たりの量は次の通り。
米=一斗五升、麦=三斗五升 俵の基準量は米麦とも三斗五升だが、倉入れに俵改めをされている。なお、榛原枡の正式容積は確認されていない。』
榛原枡は太閤検地(京枡)により廃され江戸期1669年に公用枡として決められた「新京枡」にとって代わられてその詳細実態は不明ですが、私はその「京枡」にそうは変わらないものだと思っています。ちなみに新京枡の規格は一升枡で内法縦横4寸9分、深さ2寸7分とのこと。1寸は1/33mですので約3㎝。
画像①はバイパスの東萩間インター標識。
画像②は勝間田城から出た木簡の裏表
画像左
「もみ かきケや 三斗 俵 九郎兵衛入道 はきまます」
画像右
「はきまます 三斗 俵 九郎兵衛入道 二内」
「かきケや」は地名。「柿ヶ谷」のことです。
旧勝間田村時代の役場の住所が「静岡県榛原郡勝間田村大字勝間字柿ヶ谷」。
「柿ヶ谷」在住の九郎兵衛入道が「はきまます」による計量の三斗の兵糧を納めたことが判りますが、わざわざ「はきまます」と記すことから他の計量枡等の存在が想像できます。
③は当時代に付近「笠原」家の存在を確定させる木簡。
前回にも紹介しましたが、考えてみれば、当山檀家さんの静波「笠原家」は、近江門徒とは聞いていますがもしや木簡と同一系御先祖とすれば笠原家の当地土着は当山開祖今井権七より少なくとも一世紀ほど早くなります。
先日、現笠原家御当主にうかがいましたがさすがに「わからない」そうです。
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