当山開祖権七が帰依した中山道武佐宿の廣済寺から遠くない位置に近江商人発祥の地のひとつ、五個荘金堂町があります。
明治五年まで続いた江戸時代の助郷制度では金堂町の人たちの人員供出(あるいは代貨)はその武佐宿での夫役でした。
「金堂町」(場所はここ)とは奇異な名の様ですが、聖徳太子伝承があります。
街区中心に太子開基といわれる現浄土宗の浄栄寺他、真宗寺院があり、かつてあったであろう「金堂」の存在が想像できますね。
寺社を中心に家屋が集まり周囲には「田」という漢字の語源の如く整然とした古代の条里制を彷彿とさせる街区で「重要伝統的建造物群保存地区」というお墨付きがあります。
「金堂」という地名が「近藤」と置き換えられたという歴史があるそうで、全国その苗字の方は結構いらっしゃいますがその語源でしたら何やらありがたい気がします、近藤さん。
かつてのこの地出身の近江商人たちの素晴らしいところは、各地にて商いを成功したあとも本拠地、住居は故郷金堂町に拘った点です。
世話になった故郷を捨てないというところでしょうか。
そのような彼らの姿勢が今もその家屋、街並みを残した由縁となります。これこそ「一所懸命」の姿でしょう。
わが命のみの「一生」という短いスパンでは無いということです。
画像は昨日の金堂五輪塔のスグ近く、屋島の戦いで強弓振りを知らしめた那須与一の孫の「愚咄(ぐとつ)坊」による開基と伝わる真宗大谷派の弘誓寺(ぐぜいじ)にスグお隣の浄栄寺の前の通りから。
堀を連想させる門前を流れる幅広の水流が見事です。
本堂は重要文化財。
最後の画像、山門の瓦には那須与一に因む扇の紋が・・・
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