「お寺・お墓好きにはたまらない」という撰要寺さんの山門をくぐれば高さ4メートルの巨大な宝篋印塔がダブルで出迎えてくれます。
昨日は正面の本堂をお知らせしましたが、お寺に行ったら「まず本堂」は当然ですね。今は大抵の御堂は防犯上閉まっていますので外からでもいいのでご挨拶。はやる心は抑えて合掌します。中の阿弥陀さんを観想して・・・。
とうに左側(西側)のその尋常ではない姿は脳裏に焼き付けられていますがあらためてそちらに向かいます。
何度見ても「ご健在」に安堵させられます。なぜならやはりその高さ。
山門の立葵紋が今回落下しそうでしたがむしろこの宝塔の方、落下しそうでしないこの形状、一種独特のハラハラ感があります。お墓はまったく同等の作りになっていますね。
向かって右側が大須賀康高(六十七歳)のもので、左側が榊原家から養子として戻した忠政(康高の孫 二十七歳)の墓。
忠政は横須賀藩六万石を預かりました。跡を継いだ彼の子が榊原家に戻って榊原家を継いだため大須賀家は断絶してしまいました。
今となってはどうにもなりませんが、康高の長男が僧籍に入ったとはいえ、真宗ですので妻子はあったはず。
また、寺から一旦呼び戻す事も可能と思われますので、六万石の藩と、あれだけの戦働きをした名家、大須賀家を取り潰すのは勿体無いような気がしてなりません。
この二人の石塔のすぐ右側には顔の風化崩落した阿弥陀仏坐像石仏があります。この石仏の存在もこの寺や横須賀という湊町の繁栄を感じさせますね。石仏は江戸から当地にて廻船問屋として繁盛した豪商の手によるものとのこと。
⑩の画像から石仏の大きさが推測できると思います。
かなりの資産家でなければできない代物です。
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