伊勢松阪の地に赴いた遠州横須賀衆はその勇猛さで名を世に轟かせました。ご当地、遠州池新田(現御前崎市)の桜ケ池東にある渥美源五郎の手柄、「首切坂」(場所はここ)は殊にその名を残しました。
横須賀城とはそもそも対武田、高天神城の奪還戦の中で家康の命によって大須賀康高が入った高天神城の付城です。
馬伏塚城を任されていた大須賀康高がそちらよりもより高天神城の鼻先で尚且つ、遠州灘での良好な湊を抱える当地が選定されたと思われます。
この城によって海上からの武田方、相良・滝境・小山辺りからの兵糧を抑えるための船団の基地にもなりかつ、家康の本拠地浜松城への西上を防ぐための橋頭保として必要不可欠の城となりました。
横須賀衆とは大須賀康高配下の選りすぐりの侍たちを言います。
大須賀康高亡き後、長子信髙は仏門(真宗大谷派善福寺開山)に入っていたため娘婿の榊原康政の長子を大須賀家の跡継ぎに入れて急場をしのぎます。しかし、その後今度は榊原家の方で世継ぎ不在での殿さま逝去があり、どういった家康の裁量があったのか、当時の大須賀家世継ぎを榊原家にスライドさせて大須賀家を潰して榊原家を残すという処断を下しました(横須賀藩)。
組織内団結が強くまた個々の有能な侍たちは伊勢方面の他各地に四散しました。
いつ行っても殆ど来訪者はいませんが、駐車場も備わって散策にはもってこいの城址です。
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小山昭治 (木曜日, 28 11月 2013 08:38)
横須賀高校も廃校のうわさがちらほら。
地の利が悪いのでしょうか。
同じように霧散するのでしょうか。
横須賀城は、いつもきれいにされていて
感心します。
今井一光 (金曜日, 29 11月 2013 08:05)
ありがとうございます。
そうなると寂しいことですね。
何かすべてにおいて現代の自由社会より
不自由な封建時代の方が庶民まとまって生き生き
活躍していたように感じるのは私だけでしょうか。
しかし昔には戻れません。