「愛宕山」といえば 「おれは権現」

「お山」が続きましたので本日は「愛宕山」。

ちなみに駿遠カラカラの快晴でこの日もこれまでになくフジヤマはクッキリ。

 

司馬遼太郎の「おれは権現」は可児才蔵(10/1310/23)のお話。

才蔵は自分が山城国の愛宕権現―勝軍地蔵の化身であると信じきって自ら「権現の縁日(六月二十四日)に死ぬ」と予言していました。

のちのち老い衰え伏せていた才蔵がその日に床から飛び出るとてきぱきと鎧具足を着けて床几に座り間もなく息絶えたというお話だったと思います。もしかしてこのような理由から槍一本で戦国期を渡り歩いて名を為したのかと無理矢理納得したものです。

 

愛宕山(場所はここ)は京都盆地の比叡に対峙するように都を包み込む山系にありますが、軍神勝軍地蔵を祀ることから古くから武辺の者どもから「八幡」と同様に崇敬を集めてきた歴史があります。

 

現在は「火伏せの霊験」ということで「火迺要慎」(これで「ひのようじん」と読みます)の御札を出しているとのこと。

当山でも「火用心」の手ぬぐいを盂蘭盆に作りましたがこれは以前にも記しました通りその「霊験」とやらへの期待ではなく「火への恐怖もさることながら自らの驕り、怒りの火をおさめたい」という意味でしたね。

 

この京都の「お山」が世に愛宕山、権現を崇拝する寺社、数ある中の総本社です。

落語のお馴染み「愛宕山」での「かわらけ投げ」は現在参道では行われていないようですがそのおかげで耳に馴染んだ名でもあります。

このお山もいつかは行ってみたい場所ですね。

 

さて、スケールはかなりコンパクトですが、静岡市内にも「愛宕山」があります(場所はここから山頂へ)。

場所的に見て駿府城址から伸びる北街道脇、北東方向(鬼門)を守る静岡の平地に目立つ緑豊かな小山です。

こちらに「勝軍地蔵」を京都から勧進したのは勿論、家康でしょう。駿府に入ってからのことでしょうが、山頂の神社の由緒創祀を記す掲示板には「天正二年(1571)」と記されていました。

 

こちらは誤記ですね(あまり人様の事を言えませんが・・・)。

 天正二年は1574年ですし、そもそも天正二年の段階で家康が駿府を守護するために権現さんを祀るなどという状況は「ちょっと」おかしいかも・・・。

 

かつての修験道のお山は、近隣市民の絶好のウォーキングエリアになっています。みなさん健康に気を使っているのですね、たくさんのウォーカーとすれ違いました。

現在広葉樹に覆われていますがその間からは静岡市内が望めます。こちらの縁日は2月24日とのこと。