藤枝の蓮華寺池の畔にある郷土博物館では12月8日まで
「蓮華寺池普請400年記念展」と称して標記展示会が催されています。こちらの資料館、ブログ2度目の登場だったでしょうか。
高天神落城後当地田中城に入ったのが高力清長でしたが、その後家康の関東移封から開幕以降目まぐるしく領主藩主が変わります。
享保十五年(1730)本多正重系、本多正矩(まさのり)が入ってから七代本多正納(まさもり)まで続き明治を迎えます。
よってこの本多家が長期に渡って御殿様の家系として続きましたので地元藤枝において一番親しみがあるでしょう。
世に三河本多(本田)の一統を起源とする本多(田)姓を名のる家は数多ありますが、これは江戸時代に多くのホンダ一族が大名や旗本として繁盛したからですね。
本多家の大名は13家、旗本は45家にのぼったといいこの数は将に断トツです。徳川家との関係が深かったということもありますが徳川宗家と分家以外に使用できなかった葵の紋を、例外的に「立葵」として認められていました。
何しろ江戸期の「本多」姓はあまりにも系列が増え養子縁組も重なって血縁など理解するに混乱が発生します。
正重系とは「本多三弥左衛門正重」、三弥系。「正信の弟」の系列です。
正信をわかり易く大河ドラマの「お江」でいえば草刈正雄が演じていました。
正信は一説に方広寺梵鐘事件や本願寺東西分流に暗躍したという徳川家康老年の参謀でした。
そのような陰謀策士のイメージの正信とは違って弟の正重は槍の使い手です。槍一本で転戦し武功をあげた人でした。
どちらが人に好かれやすいかといえば勿論弟の方でしょう。兄の正信はたくさんの人たちに恨まれた人でもありました。ちなみに昨日ブログ、天野康景を激昂させて出奔の原因を作ったのは正信の息子、正純でしたね。
ただし二人ともチャキチャキの真宗門徒で、三河一向一揆の際にはともに一揆方について家康と一戦交えています。
一揆鎮圧後は兄正信は出奔、松永弾正の家臣となって、のち流浪。
弟正重は家康の元に戻って掛川城今川氏真攻めから長篠合戦まで転戦したのち突如として出奔。
槍一本抱えて武者修行、滝川一益→前田利家→蒲生氏郷(会津移封後)ののち家康の元に帰参した強者でした。
その正重の系がこちら田中藩の「本多」です。
展示会では当家に伝わる品々をコンパクトに纏めてありましたが、歴代の印章は圧巻。また田中藩最期の当主、本多正納の記した扁額に感動いたしました。
デジカメに慣れていてメモを取る事を忘れたため記憶が定かではありませんが、確か扁額には
「高原不生 泥生蓮華」
と記されていたかと。間違っていたらごめんなさい(後から直します)。まぁ作者の記したい意図は判りますので。
こちらには出典があって『入出二門偈』という親鸞聖人の著した偈頌(げじゅ・・・簡単に記せば「うた」)からなのです。
原文は
「高原陸地不生蓮 卑湿淤泥生蓮華
此喩凡夫在煩悩 泥中生佛正覚華」
でした。
意味はといえば、
「あの仏に近しい美しく神々しい華、蓮の華は爽やかな風がそよぐ高原に生じる事は無く、人々が嫌う湿地の泥の中から生まれるように・・・」と前段に記し、「煩悩まみれの私たちもまた・・・」ということですね。
蓮華寺池の夏は蓮だらけですが、シーズンオフの今は水面はスッキリ。蓮生寺さん側から池越しに見る郷土資料館。
こちらは「蓮」に因んだ場所であることをあらためて感じました。
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