「竹取」の咎への咎で出奔 天野康景

「竹を勝手に伐採」は重大犯罪になると記しました(11/14)。

 当地にて御世話になるようになってから、お寺では竹が入用になることがありますので、そんな時はしばしば近くの竹山に入る事がありました。勿論、事前に持ち主に許可を得ることは絶対ですね。

しかし、最近では、竹が必要なときは山に行くことは無くなって、ホームセンターで仕入れることが多くなりました。

これは、承諾をいただかねばならぬことよりも、先方竹山にて伐採した場所を立ち去る際にしなくてはならない掃除があるからです。

 竹といっても不要部分や葉が出ます。これ、案外厄介なことですね。それらを回収して、処分場に持ち込むという手間が同時に発生するため、買った方がラクなのでした。

 

 ここ相良辺りでも「たけのこ」シーズンなど警察沙汰になるような事案も発生していますので、私の小僧の時分にズケズケとやっていたような、人様の管理領域に足を踏み込むことには~山城歩き等、かなりその域を踏み込んでしまうこと、ままありますが~いけないことですね。

 

 さて、徳川家康の「竹千代」を名のった駿府今川の人質時代からの譜代で「岡崎(三河)三奉行」の一人に数えられていた天野康景という人がいます。

殿の幼名が「竹千代=竹は永遠」だから竹は大切であるというワケではありませんが、徳川時代初期にその「竹」が元となった大事件が発生しています。

 

 ちなみに三奉行のあとの二人は本多重次と高力清長ですね。

本多重次は「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の「鬼作左」。

高力清長は三人の中で遠州に一番縁の深い人で、第二次高天神城攻め(武田占有の徳川奪回戦)で大須賀康高が横須賀城を築いた後に袋井の馬伏塚城に入った人です。

高天神落城後は藤枝の田中城に移っています。

 

永禄十二年の家康による田中城攻めの際、近隣にあった熊谷山蓮生寺を焼失させていますが、あの熊谷直実の末裔といわれる高力清永(「仏の高力」とも云われる)を田中城に入れたことは家康の配慮だと思います(→宇利城)。

 

 天野康景は前二者との性格の比較では「どちへんなし」と云われましたがこれは「どちらにも偏ることはない」という意のようで、後世公平で慎重であると讃えられた人です。

短慮とは言われましょうが絶賛の意見が多い人です。

 

 「康」の偏諱からも推察されるように家康からの信任の厚かった彼は中村一氏の子の中村一忠が伯耆米子に転封になったあと駿河興国寺藩に入ります。

この地はかつて今川領の頃、北条氏康が侵攻して布陣した湿地帯、浮島原がありますが、この地の低地の農地整備・治水をはじめ善政を行ったのが天野康景でした。

 

 そんな中、天領内の農民が藩内の竹木を盗み取るという事件が発生して、藩の家臣(というか殆ど末端の下働きの如くの者たち)が、盗人たちを殺傷しました。

ところが殺傷された百姓たちと駿河の土豪出身で徳川家にも重用された天領代官、井出甚助らが殺傷事件を家康に直訴したため話がもつれます。

 

 家康も「あの天野」であるから「事を荒立てずにうまい具合に計らえ」と、本多正純が派遣されて調停にあたらせますが、本多がどういう物言いをしたのか、「農民を斬った下手人を出せ」の如く強圧的だったのかもしれません、彼を激昂させてしまい、康景は息子を連れて出奔してしまいました。

余程腹に据えかねたのでしょうね。

 

 組織のリーダーとして末端の家臣のやったことに対しての責任を感じたのかそれらを護るべく自らもその裁定に不満、異を唱えてのことでした。

 大名の地位を、家来を護るために捨てて箱根方面の山中に隠れてしまったといわれますが当時の小田原藩主、大久保忠隣が領内の西念寺(場所はここ)に匿ったそうです。

 

 こちらは現在、南足柄市沼田。私の母親の姉が京都を引きはらって現在この近くに住まわれています。

お寺の名前から浄土系を感じます。

浄土宗のお寺で境内には法然さんの銅像が見られました。

 

 元は天野家は、三河一向一揆では殆どが一揆側に付く中、康景は家康に従ったという経緯がありました。

一向宗(真宗)を憚って浄土宗に改宗した人も多くいたと聞きます。徳川家菩提寺も浄土宗ですね。

 

康景のお墓は銘が良く残っていてハッキリと確認できます。

気になるのは近くに点ずる五輪塔のパーツたち。