勝間田城「馬洗場」からの出土木簡のつづきです。
そちらでも記させていただきましたが木簡の記された時期は勝間田家敗走の時期に近いのではないかと推測できるのではないかと思います。
まさに、本当の所は不明で断定は不可能ですがこれら木簡から今川義忠の襲来が間もなく起こり得る現実として迫ってくる緊迫感をも私は感じてしまいます。
右
「竹廿四本」 (竹24本)
左
「まる竹一 合廿五本」 (丸竹1本と合わせて25本)
普通に考えて兵糧の確保でしょう。この木簡はそれらの納品書か受領書として発行されたものか、荷札の類なのでしょうね。
竹の25本ばかり如何に記して残すものかと訝しがることなかれ・・・。
現在の様に里山が荒れて竹林ばかりになって殆ど厄介者扱いされている時代と違って、当時の竹は有用の品。
日用品から武具、特に防具、柵にわたり多方面に活用される部材でした。
竹を勝手に伐採したら打ち首になるほどの貴重品でした。
戦後、母親の小田原の実家の家業は竹細工屋でした。
子供の頃その作業場で遊ぶと刃物もありまた、竹のささくれやおがくずが服に付くからと酷く叱られたものです。
相良にも何件かありました。その「竹屋」さんという素材加工業、最近になってまったくその看板を見なくなってしまいました。昭和の中頃まではザルにしろ籠にしろ竹製品はたくさん出回っていましたが、今では100円ショップのプラスチック製品が流行り既に完全に廃れてしまったという感があります。
叔父さんの手の皮膚は分厚くなって竹のトゲなど刺さらないくらいになっていましたが、そういう職人さん、昨今どんどん少なくなってしまいました。
オールサラリーマン化の時代です。
②画像は勝間田城鳥瞰図。画像右上が牧之原台地。
そちらを上がりきった先に今の矢崎部品の工場があります。
よって攻め手としては勝間田川から山城を攻め上るということをしなくても一旦台地上に上ってしまえば上から下に雪崩をうって攻め下るという絶交の落としやすい「容易き城」と変わります。横地城も同様でした。
比高差を一方向のみに求める舌状台地先端に建てられた城は、いとも簡単に落城します。諏訪原城もまた同様ですね。
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