小和田先生のお話の中から・・・
かつて勝間田城「馬洗場」からの発掘調査で出てきた木簡の図がレジュメに記されていましたので紹介いたします。
木簡に墨で記されたものが残ったのは水分の多い土中に埋まっていたからです。
とはいっても赤外線をあててようやく判る程度であるということも当日のお話にありました。
出てきた場所が「馬洗場」と呼ばれる水源池。
通常時はその手の物を埋めたりする場所では無いため、時期的には勝間田一統の末期的状況のドサクサ、あるいは敗走後の今川方乱取のあと、この場所に無価値のものとしてまとめて放り込まれたり、密かに城に戻った者が使用できないように水源に異物を放り込んで汚すという嫌がらせをしたかと思われます。
後の世に書かれた「雑兵物語」にも撤収した敵地の水源、井戸は人糞等異物を入れられて汚染されているので「飲んではいけない」と記されていますね。
そのようなタイミングからするとこの木簡は勝間田一族の敗走直前か、対今川との戦況がかなり進んだ頃と考えられますね。
さて、①②の画像は同じものです。
「殿様より(被)為下候也 池田衆陳所」
「(被)為下候也」は「下させられ候也」。つめて「下せられ候也」と。
「『被』の字形が確認できないが省略されていると考える』と古文書研究会の叔父が言っていました。
さて、小和田先生も指摘していましたが、「池田衆の陳所」の「陳」とは「陣」ですので「陣所」の事ですね。
そもそも「陣」という字はどこかで誰かが作った文字と音(じんと濁る)だそうで、元の字は「陳」が正解。
よって選挙などで「出陣式」とか勇ましく言っていますが「出陳式」が本来の字ですね。そうなると「しゅつちんしき」、「陣羽織」で「ちんばおり」、まさかそのように読むのかどうかはわかりませんが、「陳」が「陣」と変遷したことは確実です。発音も妙?でまた、しずらいですね。
こざとへんに「東」よりもその字に似た「車」の方がそれらしくてイイと思った人がいたのでしょうね。そして発音しやすく「音」まで濁らせた。そんな感じでしょうか。
ちなみに「陳内」と書いて「じんない」、「ちん」ではなくて「じん」と「陳」を読む苗字がありますよ。
そもそも「こざとへん」は岐阜の「阜」の簡略文字。
中国の内陸高地(阜康市)などにもその字が使われていますが「阜」とは小高い丘のことです。
今ある都道府県名のうちかつて理解難儀した「岐阜」という県名について、織田信長が美濃を攻略成功後、元の信長の教育係で参謀の臨済僧、「沢彦宗恩」(たくげん そうおん)の話が有名ですね。稲葉山城下の「井ノ口」の改名を信長に進言して、「岐阜」が決定したという説です。
中国・周の故事にならって沢彦宗恩の挙げた3つの選択肢「岐山・岐陽・岐阜」から選ばれたと。
「陳」のつくりの部分、ここでの「東」という象形文字には当所方位の意味は無かったようで、「中に1本の心棒を通して両端を絞った袋」だったそうです。
よって今の「陳」に「並べる」という意がありますが、要するに「丘(阜)に土嚢(袋―東)を並べる」から土塁を廻らして陣幕で囲った場所を陳(陣)所と呼ぶようになったのだと思います。
③の木簡は「笠原殿」とのみ記されています。
その姓については不明であると先生は仰っていましたが、「川崎」で「笠原」といえば旧庄屋、廻船問屋の笠原家を想い起こします。
御当家当主は当山大澤寺と同様、近江出身を仰っておりましたが、我等の当地到着より一足早く土着した土豪と考えることも有りかと。
「池田衆」という名は現藤枝の御門徒さんの池田氏を想い起こしますがそちらとの関係も考えられます。確か元は大井川周辺でしたね。
「衆」の字は当初「血」では無くて「目」を横にした字です。それを崩して「うかんむり」、「目」を横にしたものも、こちらも「囲い」を意味しています。
囲い(城壁)の中に「3本川」で「複数の人」を意味したそうです。
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