当家3代目祐伝の母、勒さん(釋尼妙意)の叔父と伝わる本多忠勝は数ある戦国武将の中、タフな槍使いで名を為し、敵将からも抜群の評価を得た人です。
ちなみに文献を紐解いても忠勝の姪?が特定できませんので当家に伝わる古文書(釋尼妙意記)の信憑性も「どうだかわからない」と疑問も残ります。
婚姻時、名家からの嫁入りさせるために、わざわざ一旦、名のある家、あるいは主君に養子縁組させてから、その家の出身として婚姻させるなどということもよくあります。
また、系図などに記されず後世残らないこともままある話です。
勒さんが成瀬藤蔵との婚姻時、藤蔵正義は忠勝より13も年上で、後世になってから忠勝の勇猛振りが囃されるようになったものですし、忠勝の血縁者を意識した婚姻が目的とするのもおかしなところです。
当然に本多家は松平家譜代一統ではあるものの、その当時に同等クラスの成瀬家と内輪でそんな回りくどいことをするものか、という疑問もあります。
本多家分家となった兄弟姉妹筋のそれも娘の場合ですから、系図にだって記されないこともありえますね。もはやその点は判明不可です。
勇猛果敢の戦いぶりもさることながら連戦数重なる中、忠勝は傷一つも負わなかったと伝わります。
軽装備を好み戦場を機動的に駆けずり回ったそうですが、彼の一番の危機的状況であった小牧長久手の戦いも本部隊の大部分が秀忠に同行して遅延した関ヶ原も手持ちの数百をフルに取りまわして大活躍しています。
機動的機敏また臨機に動かして効果を上げられたのはやはり4~500くらいの人数が丁度良かったのでしょう。
あまりの大軍では伝達系も混乱し動くも鈍重で、しばしば「烏合の衆」化することもありますので。
画像は関ヶ原の本多忠勝陣跡(場所はここ)です。民家に囲まれた場所に祠と石標、唯一旗差の「本」の字がそれのものと知らせてくれます。
④が当家の「釋尼妙意記」冒頭部分。年代も前後混乱して意味不明のところ各所ありますね。
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