「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌」可児才蔵

「槍の才蔵」や「笹の才蔵」と異名をもって特に好意的にうたわれ、後世も異色の侍として、「槍術」といえば必ずといってその世界の上手に可児才蔵の名が出てくるほどの人物ですが、関ヶ原合戦図屏風(関ヶ原歴史民俗資料館蔵)で描かれた才蔵の持物はなぜか薙刀でした。

 

  そもそも才蔵は興福寺宝蔵院の槍使いの坊さん胤栄に弟子入りして宝蔵院流槍術を修めたといわれている人ですので薙刀では少しばかりカッコ悪すぎです。

標記の槍を讃える言葉は「攻めてヨシ守ってヨシ」と以降の槍という武器を革新的にパワーアップさせて一種の流行りものの如く一世を風靡させた形状となりました。

槍術家胤栄は猿沢の池に映りこんだ三日月を突いているうちにその三日月にヒントを得て十文字槍を考案したといいます。

 槍という武器は突くことをイメージします。

部隊前面で槍衾でもって突進してくる騎馬等に対しては槍の穂先とは逆の「石突き」を地に刺すが如くホールドして相手の突進を待つのが常套ですが、実際の乱戦では振りおろして叩いたり振り回すという戦い方が有効となって突くことはむしろ場合場合の選択肢です。

十文字槍の考案により殺傷能力がアップしたことは大いに想像できます。

 

 要は穂先がストレートの細長いものでは無くて、十文字にクロスさせた鉤(かぎ)刃が付いています。

これは十文字槍と呼ばれますが、片側だけに鉤(かぎ)鎌を付けたり鉤にさらに鉤状のものを付けたりと、だんだんとただの素槍ではなく装飾性、派手な見栄えも考慮して発展していきました。

 

よって後世になって画家が才蔵をイメージしたものがこの関ヶ原のシーンなのでしょうが薙刀を持っている才蔵はやはりおかしなスタイルであることは違いありません。

もし彼がこれを知ったら怒り狂うのではないでしょうか。