後水尾天皇のかわりだねのお墓 相国寺

先日の京都大谷大学行脚のついでに立ち寄ったのが相国寺(場所はこちら)。

京都へ行くとどうしていいかわからなくなるくらい行先に迷いますが烏丸通り沿いで、東本願寺と大谷大学との間というお気軽さから短時間限定ながらブラつきました。

 

 こちらには宮内庁管轄の御陵、「後水尾天皇髪歯塚」があります。

髪歯塚とは変わったお墓の名。

読んで字の如く「髪や歯」といった類のものが埋葬されたものです。

後水尾天皇には「御寺(みてら)泉涌寺」の月輪(つきのわのみささぎ)陵墓がありますので特別にどなたかの思い入れで造営されたものでしょうか。

 

後水尾天皇は徳川時代初期の頃の天皇です。

それ以前の天皇の中には非常に個性的な人も時折出て歴史の表舞台に現われる人も散見できましたが、歴史の主役は武家に移ってしまうことに。

 

そのような中に皇位を継承して以来、後水尾天皇は幕府に対しても大いに自分の主張を通そうとした人です。

しかし「家」として考えればお父さんは後陽成天皇(第三皇子)ですがお母さんは秀吉の猶子となった近衛前子ですので豊臣家への肩入れが強く反徳川の感情が露骨に表に出たのではないでしょうか。

 

そうはいっても結局は徳川の時代です、二代秀忠とお江(崇源院)の五女の松姫(和子 のちの東福門院)を天皇の女御として入内させました。

この方は稀代の女性関係華々しき天皇で、噂では遊郭にまで繰り出したと。

公称30人以上の子供がいて、幕府が認めていない院政を執って子供たち4人の即位(109代~112代)の後ろで権勢を振いました。この状況を幕府が大らかに許容していたのは東福門院がいたからでしょう。

 

④は東福門院入内図屏風の牛車