岐阜県に可児(かに)という地名がありますが、そちら出身の武将可児才蔵由良(由長~よしなが)はあの豪勇福島左衛門大夫正則の家中でも異色の豪傑といわれた武将です。
同じ家中に居て福島丹波の如く「二君に仕えず」ではなくて「七度主君を変えねば・・・」型の武将ですね。
斎藤龍興から始まって関ヶ原でその名を不動のものとした福島正則までその中間には色々と説がある様ですが、同郷郡内出身で出世した明智光秀につてを求め、柴田勝家、前田利家、織田信孝、豊臣秀次、佐々成政らに仕えたといいます。
短期間に今で言う「会社組織」での雇用関係にも似た主従関係を次々に変え、見切りが早いというか短期、相当の偏屈者を推測できますが、これらの調子では生涯一兵卒となってしまうことも察するところ。何処へ行っても新参者で駆け出し扱いですからね。
もっとも福島時代、関ヶ原で大活躍するも一騎掛けでは最高禄の千石止まりであったことから、福島はそれでは・・と「役職」(昇格)就きを薦めたそうですが当人はあくまでも「普請役」(無役 平社員)を希望したとのこと。
興福寺子院の宝蔵院の僧衆(僧兵)で院主の胤栄は槍の使い手で十文字槍の創始者。武術家ではあるものの坊さんです。その人に弟子入りし、一筋に修練して身を興したのが才蔵で別名「槍の才蔵」とも呼ばれました。
「笹の才蔵」の異名は家康がつけたものといいます。
才蔵、すでにピークを過ぎたといえる四十七歳の時、関ヶ原合戦。
戦場随一といわれる、兜首ばかり二十(十七とも)をあげたものの1つも持ち帰らず帰陣しました。
その理由とは、いちいち首を馬の鞍につけていては時間も無駄であることと重くて動きが鈍るということから、首をとったら笹の葉を首の口の中に放り込んで目印としたそうです。
道理で才蔵の旗指物は一般的な生地に文様を記したものでは無くて、その辺に生えている笹ッ葉(青竹)という異色のものだったわけです。すべてにおいて実利をとった人ですね。また、福島先陣の井伊直政との一番乗り 一番槍 一番首争いについてもエピソードの主役はこの人です。
勿論うち捨てられた首は「実験」前に家臣に首の回収をさせて軍監に届けています。
子孫は九州の方に住まう家が続いており、私は以前、関ヶ原の博物館に特別展示されていたその家に伝わる刀を拝見したことがあります。
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