「地震が来たら高台に逃げろ」の小倉百人一首、清原元輔の末の松山についての歌、
契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは
(→ブログ)を記しましたが(このうたは忘れてはいけませんね)、元輔の娘でより高名となった清少納言について、当時の僧(僧行―そうぎょう―僧らしいふるまい 法体―ほったい―僧らしい風躰)という立場や、今では考えられない気転対応について語られた面白い書があります。
これは以前ブログで記した「寺侍に寺男」に関して、ご意見を頂戴したことから、今一度坊主・僧・法師について記してみようと思います。
あまりにも博学で切れ者として宮中で名を知らした清少納言は、その才を疎まれたのか隠居後の落ちぶれ振りは酷かったといいますし、その様子も「家が傾いている」の如く三面記事的興味をそそられるような記され方をされています。
そのギャップについて面白くまた時に憎らしい文章にして語られたそうですが、『古事談』という源顕兼という人が記した鎌倉時代の書には、晩年の清少納言のことを「鬼形之法師」とまで記しています。
まぁ「鬼形」と言ったのは、勿論老いた様相もありますが、彼女の性格の強さと知識の豊富さからくる彼女なりに断じた「無知の者」に対する嘲笑、そしてそれらをベースにした発信力について揶揄したものだと思います。
そして「法師」といえば普通に今、考えれば坊さん、僧籍にあって仏徳を広める者と思うのは当然です。
さて平安鎌倉期の大寺院の山法師や寺法師についてはよく耳にしますね。
イメージとしては義経と五条橋で出遭って(ただしこれは明治期の作り話)以来その郎党となった武蔵坊弁慶の姿を想い起こしてくだされば・・・。
当時、僧の様な恰好をしていてもひょっとすると僧衆・僧兵、いわゆる戦闘員の可能性がありました。
あらためまして並べて記しますと当時の僧の実態は・・・
①大学博士の如く教壇に立つ貴族的な僧(国の認定)
②上記の配下にあったり放逐されて僧の形をしつつ主に
副業として傭兵の如く武装して特定の家などに従った者
③念仏等、教義布教行脚して各地を廻る乞食坊主の風。
④死者葬送のためのみの下働きに特化した僧行の風体をした者
でしょうか。簡単で極論ですが、①がこれまでの平安以前の仏教。
③が鎌倉以降の新仏教ですね。
最近になって④が主たるお仕事と変遷した風の姿を「葬式仏教」と罵られる所以となりました。
何より②という僧のアルバイトなのか、イメージ優先なのか判りませんが、貴族の子飼いを起源とする武士と同様に大寺社の子飼いの僧兵は、僧の恰好はそのままで用心棒、戦闘員として徒党を組んで色々な要望に応え合力しました。
侍・法師、二つの職種の垣根も大して無かったので、ある意味、平安以降の「法師」は「ひょっとすると侍?」というイメージがあったことは間違いないところ。
というわけで、清少納言の独り身の老後、兄で武士の清原致信(むねのぶ)の屋敷に身を寄せていたときのお話を。
『古事談』巻第二臣節「清少納言、開(つび)を出だす事」
(源)頼光朝臣、四天王等を遣わせて清監(せいげん―清原氏の役職)打たしむるの時、清少納言、同宿にてありけるが、法師に似たるに依ってこれを殺さんと欲する時、尼たるの由伝ひえんとして、忽ちに開を出だすと云々。
この書を見ての驚きを2点ほど。
1 法師の姿だから殺す
この感覚こそ上記②であるからこそのもので、場所柄(武士の館)にいる僧のかたち=兵(つわもの)であるのだから殺すべき対象であるのだということが判ります。
仏に仕える風躰でありながら実態は「わからない」というところでしょうか。これもある意味少々自虐的ですが今に通ずるところがあるかも。
2 そういう時にはそこまでやるか
この驚きはまったく付録的ですがタイトルにもなっていますので・・・。その時清少納言は僧の姿(剃髪して法衣を纏う)であるが故に殺されかけたわけですが、刀を振り上げる武者に向かってその急場をしのぐに、自らの法衣の裾をまくりあげて、女である(尼であって兵では無い)その証拠を見せたと言います。
例によって彼女に恥をかかそうといった誇張にも聞こえますが、なるほどあり得る話で納得もしますね。
そのように「僧の姿=威圧=兵」をイメージしていた時代が永らくあって、それが江戸時代ともなると寺にはその支援者、郎党も居ることから、刀等の保有に関わらずそれらの人たちを総称して「寺侍」と呼んだということもあるかと思います。
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