「拾八銅の御消息」 現金持ちあわせナシ

堅田には蓮如さんにまつわる色々な伝承があります。

 比叡山僧兵の三方からの追及から逃れるに、堅田の船宿「二階屋」に逗留していた蓮如さんは当然の如く、琵琶湖を船で脱出しようと考えました。

琵琶湖対岸に上陸すれば陸路北国街道を北上し北陸方面に逃げることができます。

 ところが逃避行もギリギリのところまで来ていたのでしょう、渡りのための船賃が無いことに気が付きました。

そこで上人は「二階屋」の主人、仁兵衛を菩提寺である光徳寺(元の光瀆寺 現真宗大谷派 場所はここ)に遣わして船賃の借用を依頼したそうです。

こちらのお寺の五代目の住職、祐誓は快諾し拾八銅を差し上げたとのこと。拾八銅とは十八文として、相当ざっくり1文=100円にすれば約1800円。

当時の人たちがそうたくさんの現金の持ち合わせが無かったことは推測できますがその時の蓮如さんもさぞかし貧窮し困り果てていたことでしょう。

 

 そのときの蓮如さんは光徳寺さんに借用書、「拾八銅の御消息」と六字名号を書き残して出立したとのこと。

 

「今日も殊のふ寒さ候拠事にて鳥目拾八銅御かし

此者御越頼入候彼人々のへんしうにて

身のおきところなく偏に故親鸞聖人の

御苦労思出され候尚々仏恩のほと

おわすれなく本願の不思議を信し賜ふへく候

                   穴賢

十八日

                  兼寿」

カタヽ

光瀆寺祐誓御坊え

 

兼寿とは蓮如さんの諱(いみな)です。画像③④は堅田周辺。

昨日の本福寺さんの山号が「夕陽山」 、本日の光徳寺さんの山号が「朝陽山」。隣接している真宗寺院ですが御西が「夕」で御東が「朝」・・・そのいわれについてはわかりません。