山本勘介の墓 牛久保 「武運山長谷寺」

山本勘介といえば武田二十四将の一人、「信玄の軍師」で「大河ドラマ」から多くの歴史小説に顔を出す名前です。しかし実際は「後世の創作」ではないかと疑惑の方でもありました。

 そんな巷間というか歴史家たちにとりざたされている勘介さん、実を言うと亡くなった川中島とは別にこちら牛久保の地にもありました。牛久保駅の改札入口には「山本勘助のふるさと TOYOKAWA」のコピーが光っていました。

尚、「勘介の介」は勘介初見の「甲陽軍鑑」の記述をとって「介」にしていますが「助」とどちらでも可だと思います。

 

さて、当地、武運山長谷寺(ちょうこくじ 場所はここ)の件の勘介、以下の如く記されています。

 

「山本勘助と長谷寺」

「山本勘助は明応九年(1500)八月十五日八名郡賀茂村(現豊橋市賀茂村)に山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を源介。十五才で牛窪の牧野家家臣大林勘左衛門貞次の養子となり名を大林勘助貞幸。二十六才で諸国(近畿、山陰、山陽、四国、九州)修行に出発するまで牛久保にて過ごす。三十五歳に帰郷したところ大林勘左衛門に実子が生れていたため養子縁組を解消し山本に復姓。その後関東、四十五才で甲斐武田信玄に仕えた。永禄四(1561)川中島で死す」

 

 勘助はこの地の人々と親交があり当寺の念宗和尚とも親しく、甲斐に仕官した折り、入道して道鬼斎と称し遺髪として髪を和尚に託したそうです。川中島にて死したあと和尚はこれを悼み遺髪を埋葬して墓碑を建立しました。

 

画像⑥勘介五輪塔の脇に小さな五輪塔残がい。座りのよいよう重ねられていますが本来のものとはちがうのでしょう、大きさがバラバラです。どなたでしょうか、ついついこういう名も無き墓石に興味が行ってしまいます。

⑦勘介遊行時代、高野山で得たというお馴染み勘介護り本尊、厨子入りの「摩利支天」、こちらの本堂に安置されているとのこと。⑧は近くの大林勘左衛門屋敷跡。