三河牛久保の一色刑部小輔時家の五輪塔の佇む大聖寺にはそのお墓よりも段違いのスケールで今川義元の胴塚といわれる墓があります。
当然ながら、一色時家とは格が違うという感がありますね。
桶狭間で首を掻き落とされて胴体と離れた義元の「みしるし」は岡部元信が鳴海城と引き換えに織田方より奪還して駿府氏真の元に持ち帰りましたが、その胴体の行方はこちらに留まりました。
桶狭間での信長率いる統率された精鋭たちの超ゲリラ的俊敏さによる手抜かりの無い完璧な働きにより、駿・遠・三の守護で当時戦国世界ナンバー1といえる今川義元の首をねじ切りました。
戦力としては織田軍3000~5000に対し、今川軍は25000~40000と言われ約10倍の勢力差があったと考えてもいいかと思います。
当時このような場合はほとんど籠城戦がセオリーでしたが信長の戦略はまったくちがっていました。
目的はただ一つ「義元の首のみ」というピンポイントの目標をたてました。その計画がまんまと当たって大成功、日本の歴史はここで大きく変わったわけですね。
それにしてもトップが急死してそれをきっかけに全体総崩れして敗走、その後、家そのものが滅亡するとはいかにその人の存在が大きかったかということと配下重臣たちの結束の弱さ、跡を継いだ氏真の経営の下手さ加減が推察されるというものです。
信長隊が嵐の様に去ったあとに首の無い御屋形様の具足を付けた胴体を目の当たりにした彼の取りまきはさぞかし仰天したでしょうね。
意気揚々と上洛を目指した数万の勢がコントロールを失った烏合の衆と化した瞬間です。ちりじりになって敗走する者たちはそれぞれの思うような行動に走りましたがさすがに首がうしなわれたとしても御屋形様の遺骸を放置することはできず、家臣が背負ってこちらの「牛が伏せる窪んだ地」までやってきたそうです。
もはや駿河までの搬送は不可能とあきらめたのでしょう、この地に葬って手水鉢を置いて墓石の代りにしたと言われています。
のちに氏真は義元の三回忌法要をこの寺で営み、位牌所として寺領を安堵したとのこと。
義元の命日、5月19日には法要があるそうです。
墓石はオーソドックスな形式で無く五輪塔と宝篋印塔と何かのパーツを寄せ集めた感じがします。
ベースがその手水鉢なのでしょうか。
発掘調査はまだでしょうね。
墓地近隣に「今川」さんの表札があったのも因果不明ながら感激しました。
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