老衰の狂気か人間の本質か秀次事件に連座した人々の中でこの姫様のお話は特に後世語り継がれました。
最盛期、出羽山形藩最大57万石までのしあげた最上義光の娘、駒姫(於伊萬の方)です。
秀吉は小田原開城の足で天正18年(1590)盛岡藩の祖、
三戸城の南部信直の救援と東北地方の平定(奥羽仕置)に宇都宮まで顔を出して信直に安堵の覚書書状を出しています。
ところが翌文禄元年(1591)、当時信直の親戚筋で直信に反旗を翻した、九戸政実という人が出て信直はその件で秀吉に泣きをいれました。そこまで秀吉が本気モードで東北の辺地に大軍を率いてその九戸という反乱首謀者の討伐に力を貸した理由は今一つ不明ですが、その討伐軍の総大将が豊臣秀次でした。
一説にその帰り道に最上義光の山形城に入って駒姫を見初めたとのこと。
巷では当寺駒姫は「東国一の美少女」とも噂があったといわれますので噂を耳にして嫁にしたくなっただけで実際に秀次が見かけたかどうかは後世の作り話とも言われています。
秀次は駒姫を「側室として連れ帰りたい」と無理難題。駒姫11歳、現代だったらどう考えてもあり得ないのですが、あの状況下、豊臣家の所望に反することは時代が許しません。
またまんざら悪い話でもありませんので、とりあえず義光は了承し「幼く不作法」を理由に「15歳まで待って欲しい」ということで話を切りました。
その後も姫上洛の催促は執拗だったらしく文禄四年(1595)義光はしぶしぶ姫上洛に踏ん切りをつけます。
軽やかな気分で無かったことを推測するのは当時義光はどちらかといえば徳川家康の方に重心を傾けていたからでしょうか。
京都に到着した駒姫は最上家手配の屋敷にて休息中でしたがここで例の秀次事件が一気に進展します。
「秀次一統根絶やし」の秀吉の命は異常そのもの、問答無用で輿入れ上洛というだけの駒姫をひっ捕らえて刑場に向かわせました。
父義光の助命嘆願も及ばず、駒姫は秀次に会ってもいない身にもかかわらず「婦人11番」目に処刑されてしまいました。
実は「一統根絶やし」とは言ってもダブルスタンダード。
秀次正室の池田恒興の娘は御咎め無しの完全「セーフ」でした。
秀吉とは昵懇、池田家との付き合いは織田家家臣時代からのもので、清州会議にても力になってもらった「実績」からの特別待遇というのが定説でしょう。
最上義光の悲憤、豊家への怒りが燃え上がること当然ですね。関ヶ原では勿論、東軍家康に付きました。
駒姫の辞世の句は
「罪をきる 弥陀の剣に かかる身の
なにか五つの 障りあるべき」
画像は京都瑞泉寺、右端が駒姫(於伊萬) 「諦雲院殿誓徳大姉」十五歳の銘が刻まれています。
さて私が次に東北地方を訪問するのは何時になるかは判りませんが山形の最上山専称寺さんには行ってみたいですね。
真宗大谷派のお寺です。
駒姫と処刑14日後に亡くなった駒姫の母親、大崎夫人の菩提を弔うためその翌年に、山形城下にこのお寺を移転させたとのこと。義光が高擶(たかたま)にて布教滞在中の真宗の僧、乗慶に帰依して当地真宗寺院の中心に据えました。
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