秀次事件であり得ないことをやらかした秀吉。
その大義として「秀次無能悪逆」の風説を流し秀次一族郎党を処刑した京都三条河原に「悪逆塚」を作って秀次の首を晒しました。
京都町衆から貴族層まで「あり得ない」ことと感ずることとは天下の貴人職「関白」を解任出家させ、追って尚出家者に腹を切らせ、それに飽き足りずに一族郎党を引きづり出して処刑したという狂気ですね。
しかし本当の秀次は無能どころかかなりのキレ者でむしろ周囲からの信望も厚かったという評価の方が多いようです。
その一面が表れているのは近江八幡城を築城の際の城下「都市計画」ですね。信長の安土城には見られない、城と城下を仕切る遺構が残っています。
八幡堀と呼ばれる軍備と水運という経済活動を兼ねた幅15mの水堀を建造し、堀の内側に武家屋敷、外側に城下の町人屋敷をまとめました。現在はこの堀に上記二つの使用はありませんが、何と言ってもこの街の観光の目玉となっています。
しかし近年当初はこの堀の存続が危うかったことも耳にします。
地元での論議に堀は埋め立てて地所を拡大するという案も出て紛糾したそうですので今考えれば、残って良かったと思うばかりです。
近江八幡は秀次と城が亡きあとも「近江商人」の思想を受け継いで繁栄しました。
一番最後の画像が神社前、その先右側にロープウェイ駅があります。安土城(入場料500円)と違ってロープウェイに乗らなければ登城はタダです。
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小山昭治 (水曜日, 04 9月 2013 09:05)
俺に逆らうとひどい目にあうぞ、と言う
見せしめですね。
まるで北朝鮮の公開処刑のよう。
今井一光 (水曜日, 04 9月 2013 23:49)
ありがとうございます。
「年齢を重ねた権力者」ほど周囲の事が見えなくなるという典型だと思います。
そうなると齢をとらないか偉くならないかのどちらかしかありません。
前者は絶対に逃れることは不可能ですから後者に注意しなくてはなりません。
坊主と教師など「センセ」と呼ばれる政治家さんも含めて他は認めずとも自分勝手に「偉くなった」と錯覚するそうです。