安土城が炎上して城下の楽市商人たちもこぞって引越させて造られたのが近江八幡城。
近江八幡城建設のコンセプトもこの安土にありましたから、秀次居館跡から本丸方面に伸びる大手道に拘ったのでした。
安土城の特色は石の使用量が半端で無いことと、幅広い大手道が真っ直ぐに伸びているということでした。
改修後私が初めて訪れたときは、石仏やら明らかに墓石と判る構造物までもがこの一本道の部材とされていたことにも驚きましたが・・・。
年に数回は京滋方面に足を運んでいますがここのところこちらのお城にはお邪魔していませんね。整備されて登りやすいのですが・・・。
何しろこの城の上記2点の特色は度胆を抜かされますが、やはりこの「一本道」の発見は専門家でも信じられない出来事だったでしょう。
幅約6m、長さ180mの直線は圧巻です。
他の私の知り得る限りの城の造りというものは絶対的に「籠城戦」を意識して築城しています。
最大限の防御構造を大前提にして作るということであり、右に左に屈曲させる道こそが当たり前でした。
道を屈折させる場所を多くすることにより
①進行路を目視できない②一気呵成に侵攻できない③停滞させることにより横矢、鉄砲の的にしやすい等のメリットがありました。
要は城にとって登城路はジグザグ式が当然であって直線状の道はタブーというか絶対に有り得なかったのです。
結論から言えばこの城の築城の意味することは、信長の「天下布武」は完成しもはや城は戦いの場としての役目は終わり、政治の場へと変遷を遂げたということを意味しています。
大手道左右には秀吉、家康他、家臣団の屋敷を配し一説に城下に見せる圧巻とともに天皇行幸の道として使用するつもりだったとも言われています。
天守跡から見下ろす場所に天皇を滞在させる建物があったと言われる広い曲輪がありますが、「天皇を見下ろし」「神を名のる」こと、このことにこだわっていたのかも知れません。
彼の天下布武の夢は99%完成させたかに思えましたが一瞬の隙が彼の野望を砕きました。
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小山昭治 (火曜日, 03 9月 2013 09:03)
行ってみたくなりました。
機会があるといいのですが、
(その気にならなければいけないでしょう)
昔の武将は強気ですね。
権勢をひけらかして威圧する。
それも武器の一つでしょうか。
強気でなければつぶされる。
今も同じかな。
今井一光 (火曜日, 03 9月 2013 19:51)
ありがとうございます。
何とか時間をお作りになって訪問されることを薦めます。
安土城の峰続きの観音寺城は少々マニアックですが
車なら近隣の近江八幡城がおすすめです。
近江八幡には観光にももってこい、ちょっとしたトレッキングとあわせてもいいコンビネーションになると思います。
ただし日帰りはキツイですね。