一瞬信じられないお話ですが、鎌倉には真宗の寺は一寺しかありません。
本願寺派のお寺で、鎌倉ではありますが大船寄りの小袋谷という地にあって名を「亀甲山法得院成福寺」といいます(場所はここ)。
そもそも鎌倉という地は当然ながら「武家政治の町」として興ったため武家仏教と云えば禅(臨済)主体でありました。
そしてまた鎌倉期以降、1506~1560の間小田原北条、伊勢盛時(早雲)は先見の明があったのか一向宗への警戒をして、領内での真宗寺院の建立を半世紀以上禁止しました。
それよりあとに三河の一向一揆が起こって家康が一時的にしろ、てんてこ舞をさせられて真宗を禁止にしています。
もっとも盛時の時代は約100年に渡る加賀一向一揆を目前に見せつけられている頃でした。
しかし後北条の施策は「領内真宗禁止」ではなく、真宗寺院は山間部に建立されること無く平地建立が多いため戦略上、領内防衛上も好ましくないというのが理由であったともいわれています。
どちらにせよ武家社会(上下階級の縦社会)に好まれない真宗の教え(平等社会)であったと思われます。
このお寺以外にも多くの真宗寺院があったと思われますがこの小田原北条の「真宗禁教」に近い触れによって鎌倉から去って行ったのでしょうか。
成福寺も元々は天台宗のお寺。鎌倉幕府三代執権北条泰時の子の泰次が開基です。泰次はこの寺の裏山にある「亀の窟」で修行の身でしたが親鸞聖人の立ち寄りにより教えを受けて1232年に真宗に改修したということです。
親鸞聖人の鎌倉行脚は北条政子(1225没)の回忌法要に合わせたものといいますので七回忌だったのでしょうか。
幕府滅亡後は住職が追放されて(北条高時の弟、成円)荒廃してしまいます。
再興するも再び後北条時代の兵火によって九代宗全は北条の故郷伊豆へ逃れました。鎌倉に戻ったのは江戸幕府が開かれしばらくたった1612年です。
コメントをお書きください
お尋ね (月曜日, 19 9月 2016 20:09)
ブログ、興味深く拝見させていただきました。
本文中の「しかし後北条の施策は「領内真宗禁止」ではなく、真宗寺院は山間部の建立されること無く平地建立が多いため戦略上、領内防衛上も好ましくないというのが理由であったともいわれています。」というのは何かの論文や図書に書かれているのでしょうか?
教えていただけましたら幸いでございます。
どうぞよろしくお願い致します。
今井一光 (火曜日, 20 9月 2016 01:00)
ありがとうございます。
20160920のブログにてのらりくらりと記させていただきました。
よろしくお願いいたします。