忠臣は二君に仕えず 福島丹波

「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」(昨日のブログ)という考えとは一見真逆の立場が上記、「二君に仕えず」でしょう。

その二つの考え方についての言葉をわかり易く並列すれば

①忠臣=二君に仕えない(一生涯主君は一人)こと

②武士=七回主君を変えること

ですのでそもそも「忠臣」と「武士」とで微妙に主語が違うのです。

しかしながら戦国の世でいう「殿」や「御屋形」である主(あるじ)の家臣は当然ながら「忠臣であり武士」ですのでこの二つの言葉は同様にも感じます(そうでない場合もありますが)。

 

 一人の主君に生涯付き従って忠義に生きることも、次々に主君を変えて己の力を十分に引き出してくれる主君を探して過ごすも結局その世界で功名を挙げればその「生き方こそ」一番!!となって周囲も褒め称えて、極端とも思える二つの「生き方」が両立したのでしょう。

それぞれの立場の人たちによる「正しい生き方」があるのでした。要はどう生きようが、死のうが「功名」を挙げるか否かにその人の人生がかかっているのでした。

「功名」とは昔風に言えば「出世」に繋がる手柄をたてて名をあげることでしたが、今風に言えばクラークさんの 

Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の如く

「大きな目的」とでも解釈すればいいと思います。

そう考えればやはり主君を会社と見立てたとしても生涯一社で勤め上げようが、転々と変えようが、独立しようが目的を決めてそれが成就できたとすれば十分に功名となりましょう。

「大志」を抱くことこそがまずは必要条件なのです。

 

「二君に仕えず」というと家康の家臣の本多忠勝や成瀬藤蔵の弟の正一の嫡子、成瀬正成がピンと来ます。

二人とも秀吉直参として誘われますが「丁重」に断っています。

忠勝は「月日の論には及び難し」でしたが正成の場合は、下総4000石の身を秀吉から50000石で召し抱えられる話を「二君に仕えず」に「腹を切る」まで言って断っています。

 彼らは家康恩顧の家系であることは勿論でしたが、徳川家では重臣クラス。

「余裕」もさることながら世相を俯瞰していればその立場を離れる事こそ愚策であることであると感じ取っていたのかも知れません。

 

ところがこの男はどうでしょう。

福島治重(はるしげ)、通称丹波守、福島丹波です。

豊臣秀吉の数少ない縁者、福島正則の叔父であるといわれ、正則の活躍した度々の戦に参加しました。

 主君正則に対しての忠義は厚く正則が改易された時、広島城の城代家老だった丹波は籠城戦の構えを見せました。

これが世にいう「福島城渡し」です。

城代の役目は主君の命令であるという大義をかざしたものでした。結果的に正則の命令書を書かせた幕府方に城を明渡しました。無血開城です。

面倒見がよかったため家臣たちは次の士官先を見つけられ浪人することなく「就職」できたのですが、当の本人の丹波は多方面からのお誘いを断って剃髪したそうです。

その時の言葉が「二君に仕えず」でした。

当流は阿弥陀仏への「一仏一心」ですので立場は違いますが丹波の気持ちもわかる気がします。

 

画像は関ヶ原合戦絵巻、福島丹波の後姿です。

 

 

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    島田秀樹 (月曜日, 01 7月 2019 17:39)

    三成憎しだけで東軍についた正則(豊臣恩顧の諸大名)は家康の野望を見抜けなかったのか疑問が残るが、いずれにしても最終的には豊臣家を滅ぼすことになったのは正則が愚か者だったから。後悔しても遅いのだ。

  • #2

    今井一光 (月曜日, 01 7月 2019 19:25)

    ありがとうございます。
    福島正則の単純な生き方は見ていてハラハラ、歯がゆさも感じますが、「愚か」と言ってしまうのはかわいそう。
    人物としては面白い人ですね。
    うまいこと利用されちゃいました。