七度主君を変えねば武士とは言えぬ

本山東本願寺上山の機会がありました。

丁度西日本が大荒れの時で何とか京都は小雨、この雨以来めっきり涼しくなりました。

御影堂門と阿弥陀堂は例の覆いでガッチリ囲まれていますので、参拝は御影堂のみ。

進捗状況としては7月末に阿弥陀堂の新瓦葺き工事が開始されたところとのことです。

 そして烏丸通りを北上、ちょっとした所要にて初めて大谷大学を訪問しました。

先般伺った名古屋同朋大学もそうですが当流僧籍(教師資格といいます)のある人はまずこの学校の卒業者ですね。

 私は高校時代にこちらを受験しろなどというアドバイスが父や祖父からは無くて私の自由にまったく仏教学とは無関係の東京の学校へ行くことを黙認したのは当山15代を継承させる選択肢が当所は他にあったのかと思います。

昔の考え方でいえば出来が悪いなりにも「惣領家の長子」ということで小生が自動的に家を継ぐ事になったのでしょうが、その頃から10年くらいの間は妹の亭主やら叔父さんやらの名前があがっていましたね。

要は家としては誰が住職になってもイイというスタンスだったのでしょう。

私も中途半端な考えで社会に出て殆ど成り行き任せで沖縄をはじめ会社を転々と渡り歩いていました。というわけでどちらの「候補者」よりも禄の少ない(禄で無し)でしたので何となくフリー、言い換えれば一番遊んで暇そうにしているということで会社というものに執着も無く、そのまま坊さんという職に収まったのかも知れません。

 

しかし私としてはこのたくさんの仕事を転々としたその経験が案外この職に生きているような気がします。

考えてみれば父親も祖父も例えば大工仕事、殆どのちょっとした家庭内作業から雑務まで人の手を借りなくてはまったくダメでした。

祖父などは自転車すら乗れないということを周囲に自慢していたことを覚えています。

世間知らずなんでしょうね。そして父親の代ほどセールスマン等詐欺的な商法に騙された人はいなかったでしょう。

私は先天的な虚け者ですので人の事をどうのこうのとは云えませんがたくさんの仕事に巡り合い、たくさんの人間と混じることによって多くの物を得られたということが今となってはとても良かったと思っています。

世は往往に転職を嫌いますが・・・。

 御開祖聖人も中興の蓮如さんも愛すべき教如さんもずっと一カ所に居ついて安泰を貪った方ではありませんでしたね。

可児才蔵が主君を次々に変えていく姿や藤堂高虎の「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という言葉は私が会社に辞表を出す際、自分なりに大いにその後ろめたさを肯定させ背中を押す言葉でした。

 

ちなみに「武士」という言葉は文献上、武田相良城を縄張りしたという高坂弾正の甲陽軍鑑が最初とのことで時代によって意味やニュアンスは多少異なります。

①平安期の「貴人にさぶらふ」「犬」から②室町期の「半農の武者」というエゴイスティックな立身出世と栄達のための中途半端な職業、そして③幕末からミシマまでの「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」という言葉に表された忠義から国民的道徳思想、いわゆる「カッコいい生き様」と変遷しています。

 私が思う武士は多少利己的(人間的)で下剋上世界の武士、やはり戦国期の武者の生き方に一番の面白みを感じます。

堅いことよりも人間的な方が面白いということです。

 大谷大学の最近の売りは「人間学」をテーマにしているそうですね。すべての学部学科においてです。