旧金谷、牧之原台地の諏訪原城という名称は武田時代のもので、現代になって武田時代の方が色々と都合がよろしいということで徳川方新名称の「牧野城」の名を排して「諏訪原」にて統一しているということはかねてからブログで記させていただいています。
(諏訪原城 20120709 20120716 20121221 20130104)
発掘調査も暫時行われていますが当然ながら徳川時代の遺構のみが出現残存しているようです。
「家忠日記」によれば牧野城あるいは牧野原城と記していますが、この城を武田方より奪取したのちは家康家臣が交代で城番として守備にあたっていました。
その中の一人牧野半右衛門康成の名が牧野城と呼ばれるようになった理由といわれています。当地が古来から「牧の原」と呼ばれていたこともあってその名の方がしっくりくるというのは私だけでしょうか。
康成の「康」は家康より一字拝領、偏諱で元は今川配下の中、松平の勢力が抜きん出たところで家康に付きました。
家康には以後付き従えて、家康にとって数えるほどしかない致命的な危機のひとつ「伊賀超え」にも同行しています。
牧野家は三河牛窪の有力土豪の一族(牛久保六騎)で前述「家忠日記」にも牛久保城主という形で頻出しています。
現在の牛久保城の中心は駅と住宅地で跡形もありませんが、駅前の踏切脇の広場にかつて城があったことを表わす石標が建っています。
前面を豊川と支流が形成する湿地帯を天然の堀とし、緩やかな河岸段丘上に築かれた平城でした(場所はここ)。
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